愛欲の海



                                      もりつぐ さん 


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 おちょぼ口のキス

 

画家の爺さまのセックスは、何といっても「おちょぼ口」です。皆さんも

何のことか分かりませんね。形のいい小さなおちょこ(猪口)のような口

が、おちょぼ口です。分かっている人には当たり前の話ですが、キスをし

てみなければ分からないよさです。

 

おちょぼ口の裏側には、ビロードのような、ぬめぬめの幕があります。そ

れがぬるっと当たると、脳に激震が走ります。キスの良さは、そのぬめぬ

め次第です。ざらっとしていたら、快感にはなりません。相手もぬめぬめ

の唇なら、もう最高なのです。

 

このサイトを始めた安寿さんから聞いた話です。付き合ったお父さんは、

キスが抜群の人だったそうです。とろけるようキスは、死んでも忘れない

味だったそうです。そのお父さんがどれだけ上手だったか、私には分かり

ません。でも、もちろん、おちょぼ口です。

 

忘れられないキス、相手の唇に触れた瞬間は誰も忘れられないのです。も

ちろん、触れるだけの簡単なキス。ディープではありません。相手の様子

を見ながら、眼を見て交わす軽いキスです。気持ちを確かめながらチュッ

と触れるだけのキス。でも最高の味なのです。

 

フケがずっと好きだった私。最初のキスは、画家の爺さんとのキスでした。

絵を教えてくれる爺さんです。初恋につながるキスの話です。絵を描くの

なら、まずデッサン。石膏の像を引っ張り出しました。キャンバスに、早

速、描いて見せる。実物教訓です。

 

ダビデ像を何度も見て、石墨(すみ)でスケッチを始める。そのお手本を

何度も何度も見る。手際が段々分かるようになります。最後には人間の身

体を描く段階です。画学生なら若い女のヌード。爺さんの場合には、爺さ

んと同年代の、
60代の男の身体です。

 

アトリエには、昔の武士の裸の写真が飾ってあります。画学生のために、

恥を忍んで、裸体を曝している画像です。多分、経済が逼迫して、家族の

ために、モデルを引き受けた姿だと思います。明治の初めの頃の東京芸大、

西洋画教室の話だったと思います。

 

大変な混乱期でした。生活のすべを持たない下級武士が、生活の資を稼ぐ

ことは容易ではなかった時代です。画家の爺さんのアトリエになぜその写

真があるのか。絵描きの爺さんの絵のモデルが、どこかで手に入れて、た

またま持っていたものなのでしょう。

 

画家崩れの男が、夜店あたりで手に入れた写真なのでしょう。画家の爺さ

んが、それを見て、わずかな代金で引き取った筈のものです。今、そのモ

デルは、爺さんのアトリエで、私の絵の対象になっています。引き締まっ

た裸体をスケッチするのは、間違いなく私です。

 

 老化(フケ)の裸体

 

もちろん照明がある訳ではない。普通の日光が裸体全体に当たって、光と

影を作っています。それを石墨でキャンバスに写し取るのです。なかなか

うまくいきません。初心者の悲しさですね。画家の爺さんが、じれったそ

うに、それを見ています。でも手は出せない。

 

大事なのは、光と影のコントラスト。それがあれば、立体感が鮮明になり

ます。顔の造作も、肩の曲線も、胸の肉の付き具合も、腹筋の様子も、す

べて影の付け方次第です。光と影をかき分けることがポイントなのです。

悲しいかな勘所が分からねば前には進めません。

 

爺さんはモデルの肩を軽く押して、向きを変えます。斜めになった裸体の

尻から腹の線が、くっきり、目に入ります。早く写し取らねばと焦ります

がうまくいかない。真正面に見えるのは男の身体。陽物は下を向き、その

上に短い一文字の恥毛がくっきりと見えます。

 

60代の男性です。白い羽毛が混じるのは当然です。綺麗に刈り込んであり

ますが、男の腰部には、白い皮膚と羽毛が作る微妙なバランスがあります。

不思議な存在感です。画家の爺さんは、いとも簡単に、それを写していく。

シンプルだが、大した表現力なのです。

 

30分で休憩です。洗いざらしの浴衣を纏って、モデルの爺さんは休憩をと

ります。お茶を飲んで、たばこを一本吸う。それからまた裸に戻ります。

ふと煙草を持つモデルの指先が、動く不思議を、目にしました。物の形は

動くもの。それを捉えるのは更なる困難です。

 

そうだ。色と形を正確に見て、さらに動く形まで模写せねば、絵画にはな

らない。画家には到底なれないと気づいた瞬間でした。画家の爺さんの複

雑なすごさを、垣間見て、爺さんに対する、リスペクトが生じた瞬間でも

ありました。思わずため息が漏れました。

 

ものを見る目。それをキャンバスに写していく手。描かれたデッサンと実

際の物とを比較して、修正する脳。目と手と脳。三つの物が複雑に絡んで

働く不思議。それが画家という存在の妙と知りました。厄介な存在との出

会いです。画家の目が面白そうに笑ってます。

 

画家の爺さんとの出会いは始まったばかりでした。

 

「おい、今日は泊まっていけ。」

 

話すことはいくらでもある。粗野な人間が、まともな人間になるには、時

間が掛かるのです。顔は笑っているが、眼は笑っていない。それが爺さん

という人間の現実でした。私は裸で寝る習慣です。爺さんは、薄い浴衣一

枚です。私は短く頷(うなず)きました。

 

そして、爺さんの顔を見ながら横になります。知らぬ間に身体に浴衣がか

かっていました。爺さんは思いやりのある人です。段々、それが分かって

きました。男の人生は人との出会いです。私は少しずつ、爺さんの新しい

伴侶になっていきました。




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