愛欲の海



                                      もりつぐ さん 


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 反復練習の大切さ

 

仕事に心が籠っているか否かは、事業成功の大事なポイントです。私たち

の暮らしは、複雑な共同作業の結果なのですから。人々が仕事に誠意を込

めなれば、事業は、破綻(はたん)するのは、分かりきったことです。つ

まり、努力は、跡形もなく消え失せてしまうのです。

 

現実の怖さは、経験を積めば、誰にも分かりますが、社会には眼に見えな

い壁が多数存在します。古人曰く。大事なものは目に見えないのが普通で

す。
16歳の少年にこの壁をどう分からせるか。これを認識、対処する力を

どう身に付けさせるのか。向原伸之助は、この課題について、深く考えま

す。

 

基本の習得は第一の課題です。これがなければ、前に進めません。次には

全体を掴む力。些末なことは気にかけなくていいという訳ではない。ビジ

ネスはモノの動きと、金銭(ゼニ)の動きの複雑な絡み合いです。金の流

れはバランスシート(貸借対照表)や、損益計算書に表われます。先ずは

それをよく見て、瞬時に理解できることです。

 

バランスシートは財産の状態を「貸し方」と「借り方」に分けて表記しま

す。資産と負債の均衡が取れていれば
OKなのです。他方、損益計算書は、

入って来る金と出ていく金のバランスを見るための計算式です。早い話、

収益とコストの対比です。財務状況が一目で分かるように、工夫された計

算書です。

 

だから計算力を身に付けるための訓練は、幼少時から始めねばなりません。

太い六角形の鉛筆で、幼い子供に字を書かせるのは、指や手の筋肉の強化

が目的ですが、この訓練を通じて、子供の手や指先の力が強化できるから

です。踊りも謡も子供の頃に始めるのは、伝統芸能の常識です。

 

少しややこしくなりました。話を元に戻します。中学を卒業したばかりの

少年を採用して、自分の右腕にまで育てあげること。向原の直面した課題

ですが、これはビジネスの課題ではない。教育の話なのです。向原伸之助

が大切な子供を預かり、立派な人間に仕上げるのは、教育そのものです。

大変な困難が伴う喫緊の課題なのです。今すぐ取り組む課題です。

 

現代は核家族の時代です。両親に子供二人が限度でしょう。少ない子供を

大事に育てという課題です。過保護にならないよう注意するのは、親にと

っての重要なポイントです。一人っ子政策は、失敗した中国の制度ですが、

子育てには、社会の存続が掛かっているのを忘れてはならない。失敗は許

されない課題です。

 

失敗すれば、すべてが水泡に帰す。だから慎重に、石の上に石を重ねた努

力が必要になります。「手抜きせずに人づくりに精を出すことを忘れるな

。」元会長が何度も口にした言葉です。聞いただけでは絶対に分からない

のです。汗をかいて、自ら実際にやらなければ、決して分からないことで

すね。

 

妻もなければ子供もいない向原伸之助、60歳です。自分を育ててくれた両

親や上司のやり方を回想しては、牛のように反芻して確かめました。先人

を見習らって、柳原誠司という男の育成に精を出してきました。それでも

分からないことだらけです。試行錯誤の毎日です。簡単には解けない課題

でだったのです。

 

大事な事は何度でもも指導して、誤りがないかどうかを遂次(ちくじ)確

認しました。柳原誠吾という少年は、鍛えがいのある少年でした。感がい

いというのか、理解力に富む子供なのです、学んだことを実行に移すこと

は、手際がすごくいいのです。向原は、ただただ、感心するほかないと感

じました。

 

 異文化の橋を架ける仕事

 

数年で柳原は、米国のオフイスで仕事ができるまでに成長しました。現地

の高校で学んだ実際の英語を、自由に駆使して働いています。支社で働く

のは、柳原を除けば、現地採用のアメリカ人たちです。白人の女性が八割

強を占めています。ネイティブの英語で、意思疎通して、自由に仕事をす

る。大変なことですが、彼はそれを楽しんでいます。

 

ビジネスは意思疎通が決め手。日本人従業員は英語が分からない。だから

細かいことは、説明も、理解もできない。地域や文化がらみになれば、な

おさらの事です。経営はうまくいかなくなるのは当然です。マネージャー

と従業員は、ずっと異邦人のままです。日本と同じように、腹を割って、

本当の話をすることはできないのです。

 

誰か橋渡しのできる人材はいないか。向原の腹は決まっていました。現地

の言葉でコミュニケーションをとればいい。そのために柳原誠司がいるで

はないか。彼に任せよう。たとえば現地の労働慣行に、「ペイホリデイ」

という制度があります。有給で休暇が自由に取れるアメリカ人には、人気

の制度です。

 

現地従業員は、この制度を使って、家族を連れて国内旅行に出かけます。

でも日本人の古参の工場長は、苦虫をかみつぶしたような顔をします。

「この忙しいのに、ペイホリデイとは何事か。」顔を真っ赤にして怒りま

す。工場長のこの態度は、現地の労働者には不人気です。日本式のこの考

え方が現地人には分からない。アメリカは元来、個人主義の国です。

 

彼らにとって、仕事も大事だが、家族も、余暇も、同時に重要なのです。

日本式とは正反対の考え方です。日本では仕事が何より大事。必要なら余

暇は犠牲にしてもよいと考えます。それが日本式です。でも現地人には、

分かりません。なぜ家族や余暇を犠牲にしてまで、仕事一筋なのか。会社

に忠誠を尽くさねばならないのか。

 

一人の若いアメリカの従業員が叱られています。古参の日本人副社長は、

がみがみ小言を言っている。彼は金曜の夜、カナダの国境近くのリゾート

地に出かけました。土曜日にスキーを楽しんで、日曜日の晩までに帰る予

定でした。でも日曜日は猛烈な吹雪。そのために道路が不通となった。彼

は、仕方がないと思いました。

 

戻ったのは月曜日の晩。やむを得ない欠勤です。天候だから不可抗力。火

曜日の朝、工場長に大目玉を喰らいました。遊ぶのはいい。だがなぜ月曜

日に戻ってこないのか。日本では当たり前の常識が、どうして理解できな

いのか。しかしこの単純な道理を、英語で説明するのは難しいのです。

 

日本人幹部が本当に考えていることです。君は幹部候補生。遊びたいとい

う単純な欲望に負けて、大事な責任を放棄するとはとんでもない。そんな

時に、日本では遊びは犠牲にする。当たり前のことだ。余暇や遊びで、自

己の大事な責任を放棄する幹部は、どこにいる。いや、どこにもいない。

顔を紅潮させて、日本人幹部は、若いアメリカ人を叱っています。

 

仕事も大事だが、余暇も大事。他のアメリカン人の会社では、そうやって、

みな楽しく働いているのではないのか。なのに、この日本人の会社では、

余暇を犠牲にしてまで、仕事に勤み、会社に忠誠を尽くせと言っています。

大事な奥さんや子供の楽しみは、なぜ犠牲にしなければならないのか。

 

たしかに、アメリカでも、家族も余暇も犠牲にして、仕事に尽くすことが

美徳だった時代もありました。でもそれは、もう過去の話です。今は現地

従業員が直面する異文化問題にしっかり応答しなければならない時代です。

地域の伝統や、文化の違いを無視せずにスマートに調和させていくかが、

重要な課題となっているのです。

 

現地の人々が、気持ちよく働ける環境を準備すること。今は、グローバル

な経済時代です。アメリカ人の会社も、日本人の会社も、異なる文化や異

なる慣行に、配慮しなければならない時代です。地球型経済の時代には、

ごく当然のことです。そのために勉強会を開くのは、最早、当たりのこと

になっているのです。



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