もりつぐさんのエッセイ №8            .




もりつぐの回想:          .


安寿さんのこと ⑧



 常識を弁える人

常識を弁(わきま)えた人とは、安心して付き合える相手のことです。裸

で寝ていても、安心できる人のことです。油断ならないこの世界で安全に

生きるための、基本です。初めのころ面食いだったので、私には相手の心

の中は見えませんでした。分かるのはうわべだけのことです。事件を起こ

し、さんざん苦労した挙句(あげく)に、相手が何を思い何を考えている

かが、少しづつ分かるようになりました。

 

分からないうちに身体を重ねてしまえば、問題が起きるのは当然です。経

験を積み、常識の大切さが身に染(し)みたころ、安寿さんと出会いまし

た。ネットを通しての、遅い出会いでしたが、やり取りを通じて、素朴で

温かい人柄に触れ、気楽に話せるようになりました。普段では離せない、

恥ずかしいことも、気楽に話せるようになりました。

 

メールのやり取りは、亡くなる直前まで続いたのです。自宅が互いに遠く

隔たっていたので、滅多に会うことはできなくて、そんな不遇(ふぐう)

を嘆きました。最後に会ったのは、なくなる三か月前のことです。関西の

共済会に宿を取り、二人で泊まり一晩話しました。予約してくれたのでは

病気の彼で食事もできないほど衰弱していたのに、無理して出てきてくれ

ました。

 

朝食後に新幹線の駅で別れました。それが最後になりました。消えていく

後ろ姿が、目に焼き付いて離れません。つらかったろう、悲しかったろう、

思い出すたびに、涙がこぼれ落ちます。

 

憧れの職長さん

中肉中是の安寿さんを思い出す度に、不思議なことに目に浮かぶのは、年

寄りのふんどし姿です。私の初恋は、もちろん男、初老の渋い男性でした。

裸になると、背中から腰へと古傷があります。戦時中にいじめにあってで

きた傷です。後になって知りました。

 

古くからいる職長さんでした。アメリカでは、「フォアマン」ですが、日

本では「おやじさん」です。米国では、地位が高く、馬車に乗るような人

と、アメリカの経営の歴史の本を読んで知りました。

 

私が惚れたその職長さんは、専用の浴場に行くのが彼らの習慣でした。だ

が、その日は、なぜか私に声をかけ、一般工員の風呂場に向かいました。

風呂で私に話をするためでした。

 

職長は、普通、60人から100人ぐらいの工員を統率するリーダーです。10

人程度の班を、五つか六つ束ねて、仕事を請け負います。簡単に言えば、

小さな家族のような集団で、結束力が強いのです。職長はおやじさんで、

仕事も、冠婚葬祭も、一糸乱れずに執り行います。親しみを込めて、おや

じさんと呼ばれます。

 

部下の尊敬を集め、技術も人徳も備えた人物です。ではなぜ、見習いの私

に声をかけたのか。一緒に風呂に行くことになったのか。それには事情が

あったからです。

 

詳細な説明は省きますが、職長は、大変面倒見のよい人でした。鋭いカン

の持ち主で、頭のよく廻る人でした。その老練の職長が、ちらちら自分を

見る青年の視線に、気づかぬはずはありません。私はその人に憧れ、好き

になっています。頭に血がのぼって、周囲に配慮できない状態に落ちいっ

ています。

 

初恋と同じで、見境がなくなってしまったのです。そんな状況でが周囲の

気持ちが分かるのは、何十年も先の事でした。

 

 

 風呂場でのコミュニケーション

 

だから間一髪、老練の職長が助け舟を出してくれたのです。声をかけたの

は、十分に考えた行動の結果でした。風呂桶を抱えて、工員用の風呂場に

つくと、職長は気楽に作業服を脱ぎ始めます。

 

あっと思う間に裸になる職長。綺麗な白い肌が見えます。真っ白な越中褌

(ふんどし)は、あこがれの的でした。それを、さっと外(はず)し、素

っ裸になります。私もデカパンを外します。

 

浴場は、何十人もの工員が一度に利用できるほどの作りで、着替えと、洗

い場、浴槽から成り立っています。そこで何を話したのか。職長は普段通

りです。自宅はどこか。家族は何をしているか。父親は病気で死んだのか。

会話が、靄(もや)の中で交わされました。

 

初老の職長は人生のベテランで、若い見習の気持ちなど、よく分かってい

ました。一緒に入ろうと声をかけたのには、職長を好きになった私に恥を

かかせたくなったからです。小さな職場は共同体です。誰が何をしていて

も、すぐに皆に分かってしまいます。濃密な人間関係なのです。そんな共

同体で、おやじさんは、みんなの父親役です。その人に強い恋愛感情を抱

くことは、タブーなのです。

 

工場は、船舶用のボイラ(巨大な湯沸かし装置)を、組み立てる現場でし

た。分厚い鉄板を使って、ボイラという装置を作り上げる、ちょっと危険

な作業空間です。油断をすれば誰かがけがをする。大勢の働く工員を、ま

とめて安全に作業を遂行する。それが職長のメインの仕事でした。

トラブルの解決策

 

どの工場にも、天井にクレーン(重いものを運ぶ機械)が走っています。

専用のオペレーターが操作しています。このころ、実習は二週間単位でし

た。それを管理するのも、職長さんです。自然に皆と仲良くなりました。

クレーンの操縦士は30代後半緒で、馬が合ったのでしょう。お茶を飲んだ

り、昼食を摂(と)ったりする仲間の一人です。ある日、その人が、「上

がって来い」と合図します。親しくなったから、内部を見せてやろうと思

ったのです。

 

すると件(くだん)の職長が、それを見ていました。すっと階段を上って、

ブースの前にやってきます。急いで、運転手は自分の身体で、私の身体を

隠しました。職長は、ブースの中を見るまでもなく、軽く声をかけただけ

で、下へ降りて行ってしまいました。ベテランの職長です。分かっていて

も、咎めることはしませんでした。見習いが操縦室に上がっていくのは、

危険です。明らかに規則違反です。

 

この事件があって数日後、風呂に誘われました。コミュニケーションで、

問題は解決することにしました。老練な職長の知恵だったと思います。細

かいことは何も触れませんでした。だまって背中を洗ってくれました。温

かい気持ちが伝わりました。祖父と風呂に入っている昔を思い出し、涙が

でました。

 

好きな人に背中を流してもらっている。むすこは、不用意に動き始めます。

緊張と、興奮から膨張し、見事にそそり立ちます。もちろん、せがれとは

私の亀頭と男根の事です。

 

職長は気楽な人で、話が分かる性格でした。もちろん気づいていました。

「この青年は、わしが好きなのと。」その気持ちをやんわりと受け止め、

大事なことを、そっと教えました。

 

「好きでもいい。でも危ないから規則には従わねばなりません。クレーン

にのぼるのは危険です。今後は注意しなさい」。ありがたい忠告でした。

 

卒業式が終わったころ、職長から社内メールが届きました。卒業祝いをや

るので、人形町の料亭○○へ出て来てください。直接のメッセージでした。

当日、浅黒い顔をほころばせて、私を歓迎してくれました。新旧の仲間の

集まる歓迎会でした。かっこいい中肉中背の職長さんです。六尺の似合う

初老のあこがれでした。

 

結局、進学するために、その工場を辞めることになります。歓迎会の晩、

思いがけない出来事が待ち受けていました。

(つづく)









トップ アイコン目次へもどる      「エッセイ一覧」へもどる
inserted by FC2 system