北極星さんのエッセイ №9               .




衆道の今昔 (2)  .


                                       2014-10-16

老いのときめきのみなさんおはようございます。

 

平安末期.鎌倉時代(1185 -1333)  :  公家への広がり

平安時代末期には男色の流行が公家にも及び、その片鱗は、例えば複数の

男色関係を明言している藤原頼長(平安時代末期)の日記『台記』に伺え

る。また源義経(平安時代末期
- 鎌倉時代初期)と、弁慶や佐藤継信・

佐藤忠信兄弟との主従関係にも制度的な片鱗を見出す説がある。北畠親房

(鎌倉時代後期
- 南北朝時代)は『神皇正統記』で男色の流行に言及し

ており、その頃にも流行していた証拠とされている。

14世紀(鎌倉末期-室町初期)に成立したと推定されている『稚児観音縁

起』には稚児と僧の関系が描かれている。

 

室町時代(1336 -1573)  :  武士の男色

平安末期には武士社会は台頭していたが、中世室町時代には武士の間で男

色が盛んになり、その主従関係の価値観と重ね合わせられた。後にこの関

係は「衆道」と呼ばれる。

三代将軍・足利義満は能役者の世阿弥が少年だった頃、彼を寵愛した。こ

の二人の男色関係は芸能の発展において多大な影響を与えたとされている。

また六代将軍・足利義教は赤松貞村という武士を愛して領地を加増した。

後、同族の赤松満祐にこれを不満に思われたことも理由の一つとなり、義

教は暗殺される
[3]。八代将軍・足利義政は有馬持家、烏丸資任ら寵童を

側に置いた。その他の武士にも男色を風雅の道として行う者がいた
[3]

この時代に成立した能や狂言には男色がとても多く取り入れられており、

代表的なものに『菊慈童』、『花月』などがある。また『幻夢物語』、『

嵯峨物語』、『鳥辺山物語』などの稚児物語が多くつくられ、内容は公家

や寺院におけるものが多くを占める。これは物語をつくる能力が公家らに

独占されていたからだとされ
[4]、武士の間で男色が少なかったことを意

味しない。

江戸畤代より前武家社会の男色は、それまでの公家の美少年趣味とは異な

り、女人禁制の戦場で武将に仕える美少年を「お小姓」として連れて行っ

たことなどが始まりだとされる。時に女性の代わりに男色の相手をするこ

ともあった。

岩田準一の『本朝男色考 男色文献書志』によると、武家社会の男色は、

戦国時代より前から存在しており、貴族政治から武家社会に転じる鎌倉時

代にその習俗はあったという。そして「最初には、僧侶特有の風俗らしく

思われていたものが、ついには武士によってほとんど奪われてしまったご

とき奇観を呈する」と述べている。

白倉敬彦の『江戸の男色』によれば、将軍の小姓制度が確立したのは室町

幕府の頃である。能楽の創始者となった世阿弥なども足利義満の寵童の一

人であり、将軍に寵愛され庇護も受けるなど、男色は一つの手段でもあっ

た。

氏家幹人は『武士道とエロス』で「戦術としての男色」を挙げている。『

新編会津風土記』巻七十四が伝える「土人ノ口碑」で、文明
11年(1479

年)に蘆名氏が男色の契りを戦略的に利用して敵方の情報を入手し、高田

城に攻撃を仕掛けたという。このように武家社会の男色は「出世の手段」

や「戦術」、或いは軍団の団結強化の役割もあった
[2]

 

戦国時代(1467/1493 - 1590)  : 戦国大名の家中における男色

戦国時代の随筆「梧窓漫筆」に、「戦国の時には男色盛んに行なはれ、寵童

の中より大剛の勇士多く出づ」
とあるように、戦国時代には武士の男色

がますます盛んになったといわれ
[3]、戦国大名が小姓を男色の対象とし

た例が数多く見られる。
織田信長(1534)と前田利家・森成利(蘭丸)

[5]
の例は有名だが、他にも、 武田信玄(1521)と小姓・源助(2人は衆

道関係を誓い合う覚書まで交わしている
[6])、 上杉景勝(1556)と清野

長範
[7] 伊達政宗(1567)と片倉重綱・只野作十郎(正宗から浮気を疑

われた作十郎は疑いを晴らす為、自ら腕を刀で突き血でしたためた起請文

を送っている)
[8][9] 豊臣秀次(1568)とその美貌が後世まで語り継が

れる不破万作
[3] などが有名な例として挙げられる。武士道と男色は矛盾

するものとは考えられておらず、後の江戸時代中期に出された武士道につ

いて説いた「葉隠」にも、男色を行う際の心得を説く一章がある。

1549年に来日したフランシスコ・ザビエルは日本人を賞賛しながらも、許

すことができない罪悪として男色を挙げ、ザビエルを保護し布教を許した

山口の大名、大内義隆がもつ美少年の数の多さに驚き嘆いている
[3]。ま

1579(天正7)年に初来日したイタリア宣教師、アレッサンドロ・ヴァ

リニャーノは、日本人に見られる罪悪は色欲に耽ることだとして、特に男

色については、「彼らはそれを重大なことと考えていないから、若衆たち

も関係のある相手もこれを誇りとし、公然と口にし、隠そうとはしない」

と書いている
[10]。時代は江戸初期に跨るが1619 (元和5)年に来日したフ

ランソワ・カロンも、「貴族の中には僧侶並に男色に汚れている者がある

が、彼らはこれを罪とも恥ともしない」と言っている
[11]

 

出典ウィキペディア「日本における同性愛」:

3 「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫

社)

5信長と森乱丸(蘭丸)の関係については異説ならびに異論もある。詳細

は森成利
参照。

6 男色の日本史』(作品社)ゲイリー・P・リュープ。信玄と源助の衆

道関係を示す証拠として一次史料である書状が現存している。ただし源助

は「春日源助」とされ、信玄・勝頼期の譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)

に比定されるものと考えられていたが、近年は「春日」姓が後筆である可

能性が指摘され、「春日源助」の人物比定については再検討が望まれてい

る(柴辻俊六「戦国期信濃海津城代春日虎綱の考察」)。

8景勝と長範について記す史書は江戸時代になって成立したもので二次史

料ではあるが、当時の長範の知行等の待遇や逸話などから考えると、景勝

と長範が実際に男色関係にあった可能性もあると推論されている。

9政宗と作十郎(勝吉)の衆道関係を示す一次史料の書状が現存している。

10日本巡察記』(平凡社 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ著)

11『日本大王国志』(平凡社 フランソア・カロン著)

 

出典ウィキペディア「衆道」:

A-2 「『葉隠』における武士の衆道と忠義―『命を捨てる』ことを中心に

―」(頼鈺菁)より。

 

 

(続く) 次回は「江戸時代前期:衆道の確立、男色文化全盛へ」から始

まる。









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