北極星さんのエッセイ №10               .




衆道の今昔 (3)  .


                                       2014-10-17

老いのときめきのみなさんおはようございます。

 

江戸時代前期(1603 - 1868)  :衆道の確立、衆道文化全盛へ

 

男色に武家の作法が融合したものを衆道という。「若衆道」の略語で、い

つから使われ出したかは分かっていない。しかし現在確認できているもの

では承応二年(
1653年)の江戸幕府の「市廛商估并文武市籍寄名者令條(

遊女并隠賣女)」に出てくるものが、幕府の公式令條としては初出だとさ

れている
[12]。その為、武士の男色は鎌倉時代にはみられ、室町時代に盛

んになったが、衆道と呼ばれるようになったのは江戸時代からと推測され

ている。

徳川将軍15代のうち、7人に衆道関係があったことが知られており[6]、中

でも徳川三代将軍・家光の衆道耽溺がよく知られている。余りに少年ばか

りを愛し女性を近づけようとしなかったので乳母の春日局が心配したとい

う逸話がある
[3]。また五代将軍・綱吉の下で権勢を振るった柳沢吉保は

少年時代に綱吉の寵童だったことが知られている
[3]

ところが江戸の天下太平の世になると、このような衆道の特色は機能しな

くなっていった。戦国時代末期(安土桃山時代
; 1573-1603年)から江

戸中期までを扱った『葉隠』(
1716年)によると、江戸の時代の武家社会

でも男色は盛んだったが、これまでの主従関係に加え「同輩関係」の男色

も見られるようになっていった。従前の君臣的上下関係はないが、念者(

年長者)と若衆(年少者)という兄弟分の区別があり、若衆の多くは美貌

を持つ少年だった
[A-2]。また前節で触れたように武士の男色が「衆道」

といわれるようになったのも江戸期からだとされる。

ただし江戸初期でも、諸藩において家臣の衆道を厳しく取り締まる動きも

現れた。特に姫路藩主池田光政(
1609-1682年)は家中での衆道を厳し

く禁じ、違反した家臣を追放に処している
[A-3]。江戸時代中頃になると、

君主への忠誠よりも衆道相手との関係を大切にしたり、美少年をめぐる刃

傷事件などのトラブルが頻発したため、風紀を乱すものとして問題視され

るようになり、元禄も終わり江戸時代後半になると衆道は余り目立たなく

なった
[A-1]。安永4年(1775年)には、米沢藩の上杉治憲は男色を衆道と

称し厳重な取り締まりを命じている。

それでも武士道の精神と深く関わる男同士の情愛は様々な形で続き、薩摩

藩の衆道は幕末維新まで続いた
[1]。新撰組局長、近藤勇の中島次郎兵衛

に宛てた書簡にも、局内で「しきりに男色が流行している」と記されてい

[A-4]。最近の研究では、衆道が盛んだった薩摩が海軍に影響力を持っ

ていた明治時代の後半頃まで衆道の影響が残っており、衆道が完全にが消

滅したのは大正年間の頃だとされる
]

 

また江戸初期は衆道とは別に、若衆歌舞伎に代表される、売色化した新し

い形の男色文化が開花した。「陰間」遊びが町人の間で流行し、遊女なら

ぬ色若衆と呼ばれる少年達が多数現れ、少年を置いた陰間茶屋が繁盛した。

この種の売色衆道は室町後半からあったが、江戸時代に流行し定着した。

少年を置いた遊郭は、京、大坂、江戸に多数あり、江戸では、日本橋の葭

町や湯島天神門前町など、京は宮川町、大坂は道頓堀などに集中した
[3]

衆道は当時の町人文化にも好んで題材とされ、井原西鶴の『好色一代男』

1682年)には主人公が一生のうちに交わった人数を「たはふれし女三千

七百四十二人。小人(少年)のもてあそび七百二十五人」と書かれている。

西鶴は他にも『男色大鑑』、『武士伝来記』で男色を扱っており、近松門

左衛門(
1653-1725年)も衆道を取り上げた作品を書いている。こうし

て僧侶や公家の男色は武士により衆道として継承され町人にも広がって、

売色としての衆道が確立した。この様に近代
(幕末; 1853-1868)より前の日

本で男色或は衆道は、倒錯的行為としてや、女色と比較して倫理的に問題

がある行為と見なされることは少なかった。

ただし江戸初期にあっても、諸藩において家臣の衆道を厳しく取り締まる

動きも現れた。特に姫路藩主池田光政(
1609-1682年)は家中での衆道

を厳しく禁じ、違反した家臣を追放に処している
[13]。また慶安5(1652

)には少年売色が盛んだった若衆歌舞伎も江戸町奉行所に禁止された。

 

江戸時代中後期:衆道文化、余り目立たない時代へ

江戸時代中頃になると、君主への忠誠よりも衆道相手との関係を大切にし

たり、美少年をめぐる刃傷事件などのトラブルが頻発したため、風紀を乱

すものとして問題視されるようになる。米沢藩の上杉治憲が安永
4年(

1775
年)に男色を衆道と称し、厳重な取り締まりを命じていたり、江戸幕

府でも享保の改革・寛政の改革・天保の改革などで徹底的な風俗の取り締

まりが行われ、天保
13年(1842年)に陰間茶屋は禁止された。幕末には

薩摩藩や土佐藩
[]などで男色が盛んだったことなど[3]、一部の地域や大名

クラスを除いては、公然とは次第に行われなくなっていった。

ただこの時代にも、既に触れた武士道における衆道の心得を説いた『葉隠』

1716年頃)が出されているほか、町人文化や文学でも衆道は描かれてい

た。例えば平賀源内は『菊の園』『男色細見』(
1775年)などの陰間茶屋

案内書や、『根無草
/根南志具佐』(閻魔大王を美少年愛好家として描く)

や『乱菊穴捜』といった男色小説を書いている。上田秋成の『雨月物語』

1768年序)にも衆道に関する二編が登場し、十返舎一九『東海道中膝栗

毛』(
1802年~)には同性愛関係にあった2人の主人公が登場し、喜多八

は弥次郎兵衛の馴染の陰間であったことが述べられている。葛飾北斎(


1760
-1849年)や歌川広重(1797-1858年)らも浮世絵やその一種で

ある春画などで同性愛を描いた作品を残している
[14]。また歌舞伎の白浪

五人男(
1862年)の名乗りの場面に、弁天小僧が寺の稚児であった前歴を

舞台で物語る場面が盛り込まれていた。これらのうち雨月物語、東海道中

膝栗毛と、江戸時代前期の好色一代男は英訳されている。

こうして風俗としての衆道は幕末まで絶えることなく続き、隅田川で若衆

を侍らせた船遊びをする光景が維新直前にもみられた
[3]

 

出典ウィキペディア「日本における同性愛」:

 

1 Leupp, Gary P. (1999). Male Colors: The Construction of Homosexality in Tokugawa Japan.       University of California Press. Pp 26 ISBN 0-520-20909-5

3「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫
 社)

6『男色の日本史』(作品社)ゲイリー・P・リュープ。信玄と源助の衆
 道関係を示す証拠

13「土芥寇讎記」の基礎的研究」所収「『土芥寇讎記』における男色・
 女色・少年愛」、
6p

14  Japanese Hall

 

 

出典ウィキペディア「衆道」:

A-1オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫
  社)
P132「日本男色史」より。

A-2 『葉隠』における武士の衆道と忠義―『命を捨てる』ことを中心に
  ―」(頼鈺菁)より。

A-3 「土芥寇讎記」の基礎的研究」所収「『土芥寇讎記』における男色
  ・女色・少年愛」
P6

A-4 1864年(元治元年)520日の近藤勇が中村次郎兵衛に宛てた書簡。

 

 

 

(続く) 次回は「分野別の男徃同性愛」から始まる。









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