北極星さんのエッセイ №12               .




衆道の今昔 (5)  .


                                       2014-10-20

老いのときめきのみなさんおはようございます。

 

幕末 (1853 1868)・明治 (1868 1912) 初期: 薩摩/土佐藩士

の衆道復活と一時的な違法化

 

幕末・明治期は維新の中心となった薩摩藩や土佐藩の藩士などを中心に

衆道は息を吹き返した。また
1864年(元治元年)520日の近藤勇の書簡

には新選組局内で「しきりに衆道が流行している」と記され
[34]、隅田川

では若衆を侍らせた船遊びをする光景が維新直前にもみられた
[3]。明治

初期は薩摩藩出身者の衆道の習慣が有名で、記録が多く残っている
[3]

しかし同時に明治維新の辺りから、同性愛をソドミーとして罪悪視してい

た西洋キリスト教社会の価値観や、同性愛を異常性愛に分類した西欧の近

代精神分析学が流入したことにより、急速に異端視されるような状況とな

った
[35]。精神科医小田晋もまた「明治維新以前の日本は同性愛に寛容だ

ったが、明治時代の学者や教育者が、旧ドイツのプロイセンを手本として

学んで以来、異常なものとしてみるようになった」といっている。例えば

熱狂的なクリスチャンとして知られ、ミッション系の東京女子大学初代学

長にもなった新渡戸稲造は、男色について「野蛮で暴力的な行為であり、

精神修養により抑えなければいけない」と説いた
[6]

鶏姦罪

ついには明治5年(1872年)11月、「鶏姦律条例」が発令され、鶏姦(ア

ナルセックス)を禁止する規定が設けられた。翌明治
6年(1873年)7

10
日施行の「改定律例」(改正犯姦律 犯姦条例)第266条では「鶏姦罪」

として規定し直され、違反した者は懲役刑とされた
[36]。鶏姦罪の名称は

清朝の「清律」
(en)の「姦(けいかん)罪」が参考にされ、「けい」の

字には音が同じ「鶏」が当てられた。

「改定律例」第266条によれば、平民が鶏姦を犯した場合は懲役90日とさ

れたが、華族または士族が鶏姦を犯した場合は本人の名誉の問題も絡んで

くることを考慮された
[36]。和姦ではなく強姦した者には、懲役10年が科

された
[36]。未遂の場合は、それぞれの量刑を一段階軽減した[36]。鶏姦

された者が
15歳以下であった場合は処罰の対象にはならないと明記され

ていたが、
16歳以上の者に関する特段の定めはなかった[36]

この規定は7年後の明治13年(1880年)制定の旧刑法には盛り込まれず、

明治
15年(1882年)11日の同法施行をもって消滅したが、日本で男色

行為の一部が刑事罰の対象とされた唯一の時期
である。

鶏姦条例ができたきっかけは、明治5年白川県(現熊本県)より司法省に

「県内の学生が男色をするが勉学の妨げなどになり、どのように処罰すれ

ばよいか」との問い合わせがあったことだったといわれ
[37]、南九州で盛

んに行われていた学生間の衆道行為を抑えるためだった。但し衆道(同性

愛)自体は禁止されたわけではなく、薩摩藩などでは衆道は引き続き行わ

れており、事実上はザル法化していた。また実際に適用された事例も青少

年間ではなく、刑務所における囚人同士や女装者が関わるものがほとんど

で、鶏姦された側、即ち「女」として男根を受け入れた側が罰せられてい

る。このように衆道衆行為でも姦通される側が犯罪視され、姦通する側は

ほとんど逸脱とは意識されておらず、社会的にも許容されていたとされる


[38]

鶏姦罪が廃止されたのは、旧刑法草案に関わったフランス法学者ボアソナ

ードが「ナポレオン法典」にソドミー規定がないことや、合意に基づくも

のは違法ではないということを助言したことが背景にあり、司法省も同意

したためだった
[37][39]

明治後期: 学生寮・軍隊内での同性愛[編集]

明治20年代(1887-1896年)以降は異性間の恋愛尊重の気風が高まった一

方で、男だけの集団生活の機会が増え、学生寮、軍隊、刑務所などで同性

愛行為があった
[3]。森鴎外の「ヰタ・セクスアリス」(1909/明治42年)

には学生寮の美少年愛好振りが伺える
[3]

この頃の文献には、『明教新誌』の「変成男子」(1892年・明治25年)

や、『風俗画報』の「男色
-笹の屋」(1893年・明治269-12月号などに

連載)などがある。

大正・昭和初期: 男色文化復活、発展場登場[編集]

西洋文化の流入などで従来の男色文化は風化していったとされるものの、

大正期には衆道は秘密クラブや男娼のような形で各地に復活した
[40]。発

展場も大正年間までにはあったとみられ、江戸川乱歩『一寸法師』(
1927

/昭和2年)には深夜の浅草公園(浅草寺境内)に屯すゲイの姿が生々

しい
[3][41]。また戦前の一時期、東京・上野公園には男娼が屯していたこ

とが知られ
[42]、昭和初頭には男娼は銀座街頭へも進出し[43]、ゲイバー

やゲイクラブも昭和初年には出現していた
[3]。こうして公園や映画館が

出会いの場になり大規模な組織も生まれた結果、江戸期の規模に匹敵して

いたとされるが
[40]、かつてのように社会の賞賛の対象になったり、女色

の上位に置かれることはなかった
[40]

この頃は男色研究も進展をみせ、南方熊楠は明治以降に同性愛を考察し、

岩田準一は「本朝男色考」(
1930/昭和5年)で同性愛研究の基礎を築

いた。その岩田は江戸川乱歩と同性愛関係の文献収集を競い
[40]、南方熊

楠とも同性愛について書簡を交わしたほか
[44]、古今東西の男色文献を「

男色文献書志」にまとめようとも試みた
[45]。因みにこの頃、『少年愛の

美学』(徳間書店)を戦後上梓することになる稲垣足穂(後述)も乱歩と

出会っている。

1913年(大正2年)は同性愛を異常と見なさない立場から医学的に同性愛

(ウールニング)に言及した、クラフト・エビング『性の精神病理』(


1886
年)が『変態性欲心理』というタイトルで日本で出版されて性科学が

ブームになっていた。それもあって、岩田の前にも「同性の愛」(
1914

/大正3年、文明社、野元一二)、「男性間に於ける同性愛」(1920/

大正
9年、『日本及日本人』、田中香涯)、「同性愛の民族的歴史的考察」

1922/大正11年、『性』、新井誠夫)などの同性愛研究があった。

その他の文献には、女性同性愛を取り上げた田村俊子の「同性の恋」(『

中央公論』
1913/大正2年)、異性装などに関する「男優の女と女優の

男」(『中央公論』
1920/大正9年)、性転換を取り上げた「女が手術

を受けて男になった話」(『婦人公論』
1921/大正10年)などがあり、

大正デモクラシーから昭和初頭にかけては比較的多く同性愛に関する資料

が残っている(その他の明治~昭和初期にかけての文献は
[46]参照)。

 

出典ウィキペディア「日本における同性愛」:

3 「オトコノコノためのボーイフレンド」(1986年発行少年社・発売雪淫

社)

6 男色の日本史』(作品社)ゲイリー・P・リュープ。信玄と源助の衆

道関係を示す証拠として一次史料である書状が現存している。ただし源助

は「春日源助」とされ、信玄・勝頼期の譜代家老・春日虎綱(高坂昌信)

に比定されるものと考えられていたが、近年は「春日」姓が後筆である可

能性が指摘され、「春日源助」の人物比定については再検討が望まれてい

る(柴辻俊六「戦国期信濃海津城代春日虎綱の考察」)。

34  1864年(元治元年)520日付近藤勇の中島次郎兵衛宛書簡「局中頻

ニ男色流行仕候」。

35  旧約聖書『レビ記』第22章に「汝女と寝るように男と寝ることなかれ

是は憎むべきことなり」とある。
米国の一部の州における同性結婚の合

法化などの動きにも地元キリスト教組織は反対勢力となる例が多い。また

英語圏で男色行為を指す「
Sodomy/ ソドミー」は創世記に記述された、住

民の悪徳により神に滅ぼされた都市「ソドム」を語源とする。

36「改正犯姦律 犯姦條例 第二百六十六條」『改定律例』(JPEG)卷二、司

法省〈刑法
(日本)〉、1873613日。NDLJP:79427920121010

閲覧。「凡鷄姦スル者ハ。各懲役九十日。華士族ハ。破廉耻甚ヲ以テ諭ス。

其姦セラルヽノ幼童。十五歳以下ノ者ハ。坐セス。若シ強姦スル者ハ。懲

役十年。未タ成ラサル者ハ。一等ヲ減ス。」
37 『矩を踰えて 明治法制史

断章』(霞信彦、慶大出版会)「鶏姦罪―施行八年半の軌跡」より。

38^ 三橋順子『女装と日本人』p.138

39  鶏姦罪が廃止された背景には他に、この期間も男色が盛んだった薩長

など九州諸藩の政治的影響もあった可能性があるが未検証である。

40  『ゲイという「経験」』伏見憲明 ポット出版 (2002/03) ISBN

4939015416
 

41 大正より前の明治・江戸期に発展場に類するような場所があったかに

ついては検証が待たれるが、明治期に刊行されたグラフ誌「風俗画報」に

「男色
笹の屋」(明治269月など)という記事があり、これが今でい

う発展場の様なものだったのか、男娼を置いた陰間茶屋だったのかは検証

されていない。因みに「風俗画報」原本は明治大学駿河台キャンパス図書

館(
4冊欠本)に、CD-ROM版(完全版)は同和泉キャンパス図書館にそ

れぞれ所蔵されている

42 『同性愛と同性心中』小峰茂之・南孝夫 小峰研究所(1985)

43  1931年(昭和6年)『エロ・グロ男娼日記』「銀座街頭へ進出」(流

山竜之助、三興社)。

44 『南方熊楠男色談義・岩田準一往復書簡』八坂書房

45  岩田準一は戦時下で「男色文献書志」の出版を試みるが叶わず、2002

年に「本朝男色考」との合本で出版。

46       その他の同性愛文献(明治~昭和初期《戦前》)

1892年(明治25年)16 - 『明教新誌』「変成男子」

1893年(明治26年) - 『風俗画報』「男色-笹の屋」(9,10,11,12

 月発売号、
18942月発売号)

1913年(大正2年)11 - 『中央公論』「同性の恋」(田村とし子、

 286
号、女性同性愛)

19144年(大正3年)4 -『同性の愛』(野元一二)出版社:文明社

1914年(大正3年)7 - 『中央公論』「男優の女と女優の男」など女装

 などに関する特集

1920年(大正9年)920 - 『日本及日本人』「男性間に於ける同性

 愛」(田中香涯)

1920年(大正9年)10 -『婦人画報』「同性の愛」(呉秀三)

1921年(大正10年)1 -『新小説』「二人の女性の見たる同性愛-同性

 恋愛の特質」(神近市子)、「二人の女性の見たる同性愛
-愛し合うこ

 とども」(吉屋信子)

1921年(大正10年)108 -『婦人公論』「女が手術を受けて男にな

 った話」

1922年(大正11年)1 -『太陽』「婦人の男性化」(野上俊夫)

1922年(大正11年)6 -『性』「同性愛の民族的歴史的考察」(新井誠

 夫
)

1923年(大正12年)4 -『性』「性感と異性化」、「ウールニングと

 ウラニスムス」

1925年(大正14年)9 -『太陽』「女性の男性化、男性の女性化」(

 葉亀雄
)

1928年(昭和3年)1 - Materia Curiosa VolNo1』「男子同姓色情」

 (橘さゆめ)、「レスビッシ エ・リーベ」(加藤小夢)

1928年(昭和3年)11 -『グロテスク』「レズビエンヌ」(酒井潔)

1930-31年(昭和5-6年) - 『犯罪科学』「本朝男色考」(岩田準一、『

 本朝男色考 男色文献書志』
2002年原書房収録。岩田の他の男色研究

 は『南方熊楠男色談義・岩田準一往復書簡』八坂書房がある。)

1930年(昭和5年)11 -『犯罪科学』「愛する戦友」(丸木砂土)

1931年(昭和6年)『同性愛の研究』(守田有秋、人生創造社)

1931年(昭和6年)『エロ・グロ男娼日記』「朝から夜中まで」「銀座

 街頭へ進出」「男がオトコに恋したら」(流山竜之助、三興社)

1935年(昭和10年)3 -『中央公論』「同性愛の歴史観」(安田徳太郎)

1937年(昭和12年)1121 -『週刊朝日』「”ネオンの虫”七千:親

 馬鹿・子馬鹿に学校馬鹿
時局に不感症のサボ学生」(男色関係)

1938年(昭和13年)10月『改造』「男性女装と女性男装 -変態風俗史の

 一節
-

 

 

(続き) 次回は「戰後直後」から始まる。









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