越刎さんのエッセイ №16                 .




九谷焼について(5)



 小説とは別に当時わが国では有田以外に出来なかった色絵磁器の先進的

窯業技術が、どうしていち早く北陸の加賀に伝播したのだろうか。これを

解く一つの鍵が、肥前佐賀藩・鍋島家と前田家の深い親交と姻戚関係であ

る。

 3代加賀藩主・前田利常は多くの美術工芸を藩内に作る政策を取り、色絵

磁器は九谷の山奥で行うように大聖寺藩の子息の初代藩主・利治に命じた

ことは最初に述べました。

 

慶安3年(1650)佐賀藩主・鍋島勝茂が利常に伊万里焼の12点を贈ってい

ます。

 勝茂には、長女の嫁ぎ先である上杉家に、外孫に当たる姫が承応3年

1654)大聖寺藩主利治に嫁いでいました。このような事情で有田皿山の

技術や陶工が九谷にやってきたかもしれません。

 いずれにせよ長い年月と財力を掛けて作り上げた古九谷が元禄末(1700

頃急に廃炉となりました。苦労に苦労を重ねてできた古九谷がわずか
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余りで世から姿を消しました。古文書が残されていませんのではっきりし

た理由は分かりませんが語られています理由を少し書いてみます。

 

 藩主利長の死後飢饉などによる財政上の問題。徳川幕府の干渉、伊万里

焼の大量流入、藩政の混乱などです。その中で特に徳川幕府に発覚されて

は困る事実があって、大聖寺藩が製造禁止とした説があります。このため

一切の資料は消去されました。 

 九谷の窯場に九州肥前から逃れてきた隠れキリシタン陶工や明から亡命

した陶工がいたのではないかということです。その頃奥の細道の俳人・芭

蕉が九谷に近い山中温泉で長期滞在していました。彼は幕府の隠密で藩内

の探索を目的に来たのではないかともとられています。それを察知した藩

が急遽九谷古窯を廃止したのではないか。いずれにしても謎の多い古九谷

です。

 

 それにしても価値の高い古九谷は「青手」と「五彩手」があります。青

手は緑、黄、紫に紺青を加えた
4色でまるで油絵のようなタッチで器全体を

塗り埋める濃厚な彩色様式です。五彩手は緑、黄、紫,紺青に赤を加えた
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色で、花鳥風月などの日本画のように余白を残して彩る華麗な様式です。

伊万里焼や柿右衛門には全く異なる画風です。武士の手によるものと思わ

れます。

 

 いったん消えた九谷焼が再興された話はまたの機会にしたいと思ってい

ます。


 

「梅雨寒や突如消えたる九谷焼」

 

 



                                        (つづく)










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