越刎さんのエッセイ №17                 .




九谷焼について


(6)復興九谷


 九谷古窯の廃窯の後、加賀前田藩は磁器の生産を始めた。文化4年

1807)金沢の春日山に京焼の名工・青木木米を招聘して春日焼が始まっ

た。また陶石が小松の花坂に発見されたこともあり木米門下の本多貞吉に

より文化8年(
1811)小松に若杉窯が開窯しました。

しかし作品は古九谷と異なりどちらかと言えば伊万里焼に近いように思わ

れます。

 当時美濃や瀬戸にも磁器の生産が始まったようです。

 こうした復活の機運が大聖寺藩領内にも波及して、文政7年(1824)大

聖寺城下の豪商吉田屋伝右衛門が私財を投げ打って借銀をして九谷村の古

窯跡に窯を作りました。その時伝右衛門は70歳を越えていました。彼は

本名を豊田といい、吉田屋は屋号です。酒造や薬商を営む傍ら、大聖寺藩

の金融用達や町年寄の役目を務めていました。傍ら文化人で石翁といって

あらゆる芸事に長じていました。古九谷を手にした時、痛く心が打たれこ

の再興に決意しました。

 この窯は2基の九谷の窯跡に並べて作りました。作風は古九谷の様式を

まねました。この窯を吉田屋窯、作品を吉田屋九谷と呼んでいます。これ

を境に前の九谷焼を古九谷と呼ぶようになりました。

 

図1 九谷の吉田屋窯跡

 

 

  「夏草の下に吉田屋窯の跡」

 

 吉田屋は、九谷焼の中興の祖ということです。窯の従業員は20名程で、

出来た作品は多くは評判もよく京阪地方に移出されていました。

 しかし開窯2年にして、吉田屋は窯を山代温泉に移しました。九谷では

大聖寺からは遠く、交通の便の悪さ、冬の豪雪などが理由ですが、当時よ

りこうした困難は承知であった。それでも九谷焼の聖地である九谷古窯跡

において九谷焼を再興することこそが、吉田屋伝右衛門の熱い願いであっ

たに違いありません。この経緯から山代に移ってからも九谷焼と呼ばれま

した。古九谷の青手と五彩手を再現しました。

 

「爽やかや再興九谷命かけ」

 

図2 吉田屋

 

 

図3 頼山陽が愛した菓子鉢

 

 

山代の吉田屋窯は明治まで窯名は変わりましたが、使われていました。そ

の窯跡は
今も大事に保存されています。

 

図4 山代吉田屋窯跡

 

 

図5



                                        (おわり)










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