越刎さんのエッセイ №19                 .




九谷焼について


(7)復興九谷・吉田屋窯


復興九谷の吉田屋窯についてもう少しお話をします。

吉田屋窯を興した豊田伝右衛門成元の屋号は吉田屋で四代目であった。父

同様大聖寺の町年寄りを勤め、家業は主に酒造を業とし藩に火薬を納める

御用商人であった。一方幼少より学問を好み、漢学、詩文、和歌、書道は

いずれも一家をなした。絵画、鉄筆も能くし、

雅号は柳窓、道紀、遯庵、石翁といった。

 吉田屋九谷の魅力は、人間としての彼自身の魅力でもある。九谷焼再興

に着手したとき、齢七十二を数えていた。それでも九谷焼を愛しその再興

に懸ける夢と情熱を持った。勿論、文化年間に興った金沢の春日山窯、小

松の若杉窯などの刺激を受けてのものであったろうが、真の意味での九谷

焼の再興を願い、結果、大聖寺藩や大聖寺町会所の理解と支援を得て、九

谷焼の再興という偉業を成し遂げたのであった。九谷古窯跡近隣の土地の

借り上げや資材を運ぶための架橋工事など、藩庁から許可を得、多額の借

銀をして巨費とおびただしい労力を注ぎ込んでおこなった将に大事業であ

った。

 総勢20人の整然たる陣容を備えていた。この中で注目すべきは轆轤は

信楽出身者が3人,京焼出身者が2人、加賀の人が1人に対し、錦窯色絵

付の3人は全員加賀の職人であった。決して伊万里焼や京焼の絵付け職人

を雇っていない。絵付けを離れない九谷焼にとって、色絵具の調合や錦窯

の焼成技術そして絵の技量は命である。3人の絵付け職人、粟生屋源右衛

門、鍋屋丈助、越中屋幸助の三人は古九谷焼廃絶以降も加賀の地に伝わっ

た色絵の技術と物創りの魂を受け継ぐ加賀の職人でった、吉田屋窯が山代

に移りさらに施主が変わっても九谷焼に従事しました。

 ところでなぜ伝右衛門は最初から山代温泉で開窯しなかったのだろうか。

儲けを第一に考える商人なら山深い九谷の地に窯を築くということをまず

しなかったであろう。量産でなく一品制作的な姿勢もそうでしょう。あく

までも吉田屋伝右衛門は、古九谷の再興を第一義に考えていたため、聖地

とでもいうべき九谷の地にこだわり、古九谷同様の一品制作的な姿勢にこ

だわったと言えるのではないか。

 山代の吉田屋窯は文政8年に着窯して翌9年に最初の火を入れましたが、

しかし次の年
窯を改造して幅を広げたり火力を上げるため焚口を大きくし

たりしています。特筆すべきは他の窯と違って手を加えながら昭和15年

まで使われていました。

 吉田屋九谷が出てからそれ以前の九谷焼を古九谷と呼ぶようになったと

あります。吉田屋九谷は若杉窯より高価で引き取られたのは古九谷の作風

を真似ながら大胆な絵柄を出したところです。

 後述しますが、人間国宝や文化勲章受章者などを出している九谷焼の作

家が多いのは、古九谷や吉田屋九谷のように他にないものを作り上げる気

概が延々と現代まで引き継がれています。陶芸以外の漆芸、木工、金工、

友禅などでも石川はその優れた作品を出しています。

 

    <吉田屋九谷>

 



                                        (おわり)










トップ アイコン目次へもどる      「エッセイの一覧」へもどる
inserted by FC2 system