越刎さんのエッセイ №20                .




九谷焼について(8)



 吉田屋九谷は京阪で高級品の評価を得ましたが、資金的に行き詰まり、

番頭だった宮本屋宇右衛門に譲られ宮本屋窯として稼働を始めました。こ

こで赤を主体にした赤絵の八郎手が生まれました。(天保3年)

 

図1宮本屋窯:八郎手

 

 

 万延元年、この山代窯は藩営の九谷本窯となり、さらに京都より指導に

来た永楽和全が赤絵の上に金箔を貼りつけた赤絵金襴手が定着されました。

 ところが藩では、宮本窯は赤絵細描九谷ばかりを作り九谷焼本来の青手

を作らないので、山代温泉より1里ほど離れた松山という部落に窯を作り、

吉田屋九谷の青手の再興に力を入れました。これが松山窯です。

 

 図2 松山窯

 

 

図3 赤絵金襴手

 

 

明治に入ってからは民営九谷本窯、九谷陶器会社に引き継がれました。

その後は名工などが窯主になり多くの優れた九谷焼を作ってきました。

 一方能美郡の寺井村の佐野の九谷庄三は赤絵金襴手を発展させた彩色金

襴手が一世を風靡しました。明治初年パリで行われた万国博覧会に出品さ

れた九谷焼(殆どは彩色金襴手)が金賞に選ばれジャパンクタニの名で輸

出されるようになった。金襴手と青九谷を含め明治20年代には有田を抜

いて輸出日本一になりました。

 九谷庄三は吉田屋窯の3人の絵付け名工の一人・粟生屋源右衛門に陶芸

を習いました。

 

図4 彩色金襴手

 

 

その後佐野の地を中心に九谷焼が盛んになり、今では九谷焼の茶碗祭り

はここでゴールデンウイークに行われています。九谷焼資料館、九谷陶芸

村始め浅蔵五十吉美術館や県立九谷焼技術研修所など固まって建っていま

す。



                                        (つづく)










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