越刎さんのエッセイ №21                .




九谷焼について(9)



 明治時代の九谷焼は先に述べた九谷庄三とは別に、旧大聖寺藩の窯元の

復興に力を尽くした名工がいました。竹内吟秋と浅井一毫の兄弟や初代須

田菁華などでした。彼らの作品は加賀市の県立九谷焼美術館に時々展示さ

れています。

 金沢でも金沢九谷として優れた絵師が出ています。小松では初代徳田八

十吉が九谷焼の隆盛に寄与しています。

 

 このように芽生えた名工たちも、日露戦争後の不況を境に、独立を目指

すようになります。それはやがて、工芸作品を競う全国規模の博覧会や展

覧会への出品に拍車を掛けました。今の日展につながる「帝展」「文展」

等での入選や受賞を契機に作家の地位を確立していきました。

 

 大正から昭和初期には陶芸界の巨匠となった板谷波山や北大路魯山人は

九谷の地で陶芸に開眼しました。また色絵磁器の大家・富本憲吉もその技

術を九谷で大成しました。

 

 図1 北大路魯山人X須田菁華

 

 図2 富本憲吉X北出塔次郎

 

 戦後は九谷焼作家は日展に出品していましたが、入選は厳しいものでし

た。当時の日展作家には日本芸術院賞を九谷焼で初めて受賞した北出塔次

郎、その子息の北出不二雄、さらに中村翠恒、二代浅蔵五十吉、武腰敏昭、

二代徳田八十吉、二代松本佐吉らがおりました。日展系の最高は文化勲章

です。板谷波山と富本憲吉は文化勲章をもらっています。

 九谷焼作家では二代浅蔵五十吉が初めてです。

 

 図3 浅蔵五十吉美術館

 

 

 一方で昭和30年、重要無形文化財保持者(通称・人間国宝)の認定制

度が敷かれ、その普及と向上を目的とした日本伝統工芸展が開始されまし

た。石川県からは多くの作家が出展するようになりました。

 三代徳田八十吉が「彩釉磁器」で吉田美統が「釉裏金彩」で人間国宝に

なりました。

 三代徳田八十吉は吉田屋の色釉薬の調合から細かな諧調の色を生み出し

ました。その塗り分けて作る微妙なグラデーションが宝石のような輝きを

放っています。彼の高校時代の同級生の知人から聞いたところでは、彼は

絵が下手だったそうです。それで細かな絵を描くのではなく彼独特の作風

を作り上げました。普通上絵の焼く温度は800℃位ですが、彼の彩釉磁

器は1000℃以上で焼くようです。

 

 図4 彩釉磁器

 

 吉田美統の「釉裏金彩」とは金箔で作った文様の上から釉薬を施して焼

き上げる技法です。吉田は厚みの違う金箔を重ねたり貼り分けるなど、従

来なかった立体的な表現を確立した。

 

 図5 釉裏金彩

 

 このように九谷焼作家は人のものを模倣するのではなく常に新たに手法

を研究し作品に生かしています。

 

  「爽やかや常に新し九谷焼」



                                        (つづく)










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