桃色の越中さんのエッセイ 6                      .




俳人小林一茶の生涯  .



「やせ蛙(がえる)まけるな一茶これにあり」

「雀の子そこのけそこのけお馬が通る」

「名月をとってくれろと泣く子かな」

「我ときて遊べや親のない雀」

「雪とけて村いっぱいの子どもかな」

江戸時代の俳人小林一茶の代表的な句である。

 

小林一茶の生涯

宝暦13年(1763年)信濃北部の北国街道柏原宿(現長野県上水内郡信濃

町大学柏原)の中農の長男として生を受ける。
3歳の時に生母を失い、8

歳で継母を迎える。継母に馴染めず、
14歳の時に江戸へ奉公に出る。

25歳の時小林竹阿に師事して俳諧を学ぶ。

 

寛政3年(1791年)29歳の時、故郷に帰り、翌年より36歳の年まで俳諧の

修行のため近畿・四国・九州を歴遊する。

 

享和元年(1801年)39歳のとき再び帰省。病気の父を看病したが1ヶ月ほ

ど後に死去、以後遺産相続の件で継母と
12年間争う。

 

文化9年(1812年)50歳で故郷の信州柏原に帰り、その2年後28歳の妻「

菊」を娶り、
31女をもうけるが何れも幼くして亡くなっていて、特に

一番上の子供は生後数週間で亡くなった。菊も痛風がもとで
37歳の生涯

を閉じた。
62歳で2番目の妻「田中雪」を迎えるが半年で離婚する。64

で結婚した
3番目の妻「やを」との間に1女「やた」をもうける(やたは

一茶の死後に生まれ、父親の顔を見ることなく成長し、一茶の血脈を後世

に伝えた。
1873年に46歳で没)

 

残された、日記(七番日記、九番日記)によれば、結婚後連日連夜の交合

に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、脳卒中で
56歳のときに半身

不随になり
63歳のときに言語症を起こしても、なお交合への意欲はやむ

ことがなかった。

 

文政10年閏61日(1827724日)柏原宿を襲う大火に遭い、母屋を

失い、焼け残った土蔵で生活をするようになった。そしてその年の
11

19
日、その土蔵の中で64年半の生涯を閉じた。法名は釈一茶不体位。

 

※一茶54歳の時(七番日記、九番日記)より

六 晴 菊月水(月経)弁天詣デ

七 晴 菊女赤川(実家)ニ入ル

八 晴 菊女帰ル 夜五交(SEX5回)

九 晴 田中希杖ヨリ一通来ル、去ル五日、沓野ノ男廿ニ、女廿三、心中

死ス

十二 晴 夜三交(SEX3回)

十五 晴 夫婦月見 三交(昼SEX3回) 留守中、木瓜(ぼけ)の指木

(さしき)、何者カコレヲ抜ク

十六 晴 白飛二十六夜セント行クニ留守 三交(昼SEX3回)

十七 晴 墓参 夜三交(SEX3回)

十八 晴 夜三交(SEX3回)

廿  晴 三交(昼SEX3回)

廿一 晴 牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交(昼SEX4回)

 

一茶は、52歳にして初婚、これだけ精力旺盛なのは、黄精酒(強精剤)、

イカリ草酒(強精剤)、を愛飲していた為と思われる。

又、50歳を過ぎての子作りであり、子供が早死にするのは子種が薄いと

も考えられる。

又、妊娠中にも危険であるのにも関わらず、夫婦喧嘩をしてまで性交を強

要したのも、要因の一つではないかとも考えられる。

いづれにしろ、最後の子「やた」は比較的に長生きをしているのである。

 

この時代には、頻繁な交合そのものは当時の農民夫婦にとって当たり前の

ことであった。テレビもない、灯火もとぼしい、飯を済ませて日が落ちれ

ば、囲炉裏の明かりで藁仕事をして、一つ床につく。床に入れば、肌を合

わせ、全身を弛暖させ眠りにおちるというのが生活の流れになっていたの

だ。とくに冬場の冷えた寝床の中で暖をとるのはお互いの人肌である。こ

うした事情を踏まえれば、どちらからともなく腕をさしのべ、脚をからま

せるのは自然の成りゆきであろうかと思われる。











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