忘れ得ぬ人


                                             夢追い さん





古山さんその1



私がその方にお眼に掛ったのは、もうかれこれ10年も前の事だろうか。

然程高くはないが趣のあるその山が好きになっていて、ある晩秋の土曜、

バスを降りて麓までの車道を歩き、登山口から頂上を目指した。その日は

体調も良かったのか、さして息切れもせずに頂上に達した私は、これだっ

たら二つのピークを超えてバスの終点の町まで歩いても最終のバスに間に

合うとふんで、頂上から登って来た道と反対側に降りる道を下って行った。

尾根になった登山道の交差点に古い山小屋があって、水を口に含みながら

小休止をとっていた私の前に、無人だと思っていた山小屋の扉を開けて一

人の年配の方が現れた。そでまで誰にも出会わなかった私には、その方が

山での最初に顔を合わせる人だった事もあって、私は人恋しさに「今日は」

と声を掛けていた。

小柄な丸顔に丸い眼鏡を着けたその方は、眼鏡の奥の優しげなまなざしを

私に向けて「御苦労さまです」と返事をしてくれた。

私は、その風貌と声から一瞬のうちにその方の虜になった。所謂一目惚れ

のようなもので、こんな山の中でこんな素敵な年配の方に出逢うとはと自

分の幸運を思った。

私が隣の県から登りに来た事を伝えると、その方は満面に笑みを浮かべて、

自分は頼まれてこの山の登山道を管理している者だと名乗られた。他県か

ら来てくれたのが嬉しかったと見えて、その方は私が問うより先に、山の

地形、登山道が何処を走っているか、春先にはカタクリの花が頂上付近に

咲き競う事等を語ってくれた。私は一言も聞き漏らすまいと眼をその方の

まなざしからそらさずにじっと見ていた。一通り話し終えると、その方が

こう誘ってくれた。

「お昼はまだなんでしょう。もう少し先に行った所に、風の通らない日溜

まりがありますから一緒に並んで食べませんか」

勿論私にはその申し出は願ったり叶ったりの嬉しいお誘いであり、連れて

行って下さいとその後に従った。使い古されたリュックと地下足袋にブカ

ブカの太いズボン、首に巻いた手拭いに来がけに拾ったと思われる杖代わ

りの枯れた細い木がとても調和の取れた姿に見え、私は何か温かいものを

感じて触れんばかりの近さで付いて行く。ちょっとした上り下りの石を剥

き出しにした路面を歩く時は、少しその方のお尻に私の腰が触る程近かっ

たのだ。

私はどぎまぎしながら、まるで一体になったような錯覚で付いていく。心

の何処かでその方が今不意に後ろを向いたら抱き締めてやろうかと思う不

埒な考えが浮かんでは消えた。

十分ほど登り降りを繰り返し、風の通らない日溜まりに着いた。少し広が

ったその場所は、確かに風の巻かない温かさが落葉から立ち上って来るよ

うだった。私は、それまでの疾しい心を隠して、シートの半分を私に譲っ

てくれたその方の隣に腰を下ろした。

「本当にここは温かですね」

「毎日のように登り降りしてると、こういう場所が幾つか見えてくるんで

すわ。まだそれほど寒くはないから良いが、冬場はこんな場所でないとお

昼を取れんからな」

お弁当を広げながらその方がしみじみと言う。お弁当箱は小さなもので、

ご飯の上に海苔を載せてあり、おかずの箱には卵焼き、ソーセージ、漬物

が見えた。お味噌汁のカップが別にあり、温かそうな匂いが私の方まで流

れて来る。

私のお昼と言えば、朝コンビニで買ったサンドイッチと菓子パン、野菜ジ

ュースの紙パックに家から持って来たバナナ一本であった。

「何時も奥さんが作って下さるんですか?良いですね。羨ましい」

「そう、婆さんが作ってくれるよ。あんたは?」

「僕は何時もコンビニで買うんですが、どうしてもパンになってしまいま

すね。コンビニで買うおにぎりは美味しくないから」

「奥さんは作ってくれないんですかな」

「ええ、もうずっと長い間朝食も自分で用意して食べる習慣になっていま

すから、頼み難くて。おまけに不機嫌な朝の顔見たくないし・・・」

「あはは、そんなものですかねえ。寂しくなりませんか」

「もう慣れっこです」

そんな話をしながらお昼をつかう。私はとても満ち足りた気分だった。バ

ナナを半分差し上げて代わりにおやつに用意していたと思われる小さなミ

カンを頂いた。

食事の後、私は少し脚を伸ばしてバスの終点の町まで歩いて最終バスに乗

ろうと思っている事をその方に伝えた。

「あそこまで歩くんですか?結構ありますよ。大丈夫かな。バスは五時半

が最終だから、あなたのような若い人なら間に合うかも知れませんが。気

を付けて下さいね。時々熊が出ますから。もしバスに間に合わなかったら

教えて下さい。私が電車まで送って上げますよ」その方は、小さな紙切れ

を下さった。そこにはお名前と携帯電話番号が几帳面そうな字で書かれて

あった。私は礼を言い、手帳を破いて携帯電話番号を書いて渡した。

「古山さんと仰るのですね。色々ご親切に有難うございました。この山に

また来ますよ。古山さんにお眼に掛れるという楽しみが増えました」

「吉野さん、今度見える時は電車の時刻を教えて下さい。ワシが駅まで迎

えに出ますで」

「そんなことまでして頂いたら申し訳ありませんよ」

「どうせ暇なんだから構いやせんで」そう言いながら古山さんはバナナと

ミカンの皮を谷底のほうに放り投げた。

私はもう一度礼を言い。ザックを背にして握手を求めた。古山さんは年輪

の刻まれた少しゴワゴワする手を差し出す。私は強く握った。

「有難うございました。では行きますので」

「気い付けておいでなされや。遅れてしまったら遠慮せんと電話してな」

私はその優しさに思わず涙が溢れそうになって脚を動かした。少し歩いて、

石の上に立ち手を振った。古山さんが応えてくれる。

古山さんの姿が見えなくなって私は先を急ぐ。古山さんがそうしていたよ

うに、道端の枯れ木を探して杖代わりにし、途中の太い幹を叩きながら進

む。歌も歌った。まさかとは思うが、熊に出会わないための用心だった。

途中の鎖場、急な崖の昇り降り、巨岩を巻いての迂回路、登山道はきちん

と整備されていて、素晴らしい遠景の山々を見ながらの歩行は楽しいもの

だった。途中で二度程水分補給をしただけで、殆ど休まずに歩き続ける。

二時間半程で山道を降りきって車道に出る。バス停まで五キロの表示が眼

に入って私は時計を見る。バスの出る時間まで一時間と少しあった。何と

か間に合いそうだ。

車道は逆に歩き難かった。車の通行が少ないのが歩く身にしてみれば気が

楽だったが、時間との競争で急ぎ足は疲れた。

バス停に着いたのは、バスが出る十五分も前だった。汗をかいた体が少し

気持ち悪い。

私はバス停で人が来ないのを見て、上半身裸になり下着を着替えた。

私は古山さんに電話を掛けたが、山の中は電波状態が悪いようで繋がらな

い。

バスが来る。乗客は私一人だった。駅までに五人程乗っただけだった。早

晩この路線も廃止されるのだろうかとその事が気になった。

駅前でバスを降り、もう一度古山さんに電話を掛ける。

「もしもし、古山さんでしょうか?吉野です。色々お世話になりました。

お陰さまでバスに間に合って、今電車を待っているところです」

「そうかい、あんたは脚が丈夫だねえ。難しいかと思って心配していたが。

でも良かった。今度見える時は必ず電話しなさいな。迎えに出ますで。気

い付けてお帰り」

古山さんの声が耳元で音楽のように聞こえた。

私は缶ビールを手に電車に乗り込んだ。心地良い山行だった



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