忘れ得ぬ人


                                             夢追い さん





古山さんその2



二週間後、冬の気配が強くなって来た土曜日に私はまたその山に出掛けた。

山に登るのも目的の一つだったが、それ以上に古山さんという素敵な方と

一緒に山の中を歩きたいと思った。水曜の昼に古山さんに電話して確認す

ると、その日は家の農業の仕事も、登山道の管理も休みだから大丈夫だと

言ってくれた。

「おいでなされ」との古山さんの声が耳の奥に残っていた。先日お昼を食

べている時の日本酒が好きで晩酌をしているとの古山さんの言葉を思い出

し、少し値の張る名前の知れた酒をお土産に準備した。

バナナを2本と小さな羊羹もザックに詰めた。早朝の電車を乗り継いで、

古山さんの待つ駅に降り立ったのは、八時半を少し廻っていた。その日も

秋晴れの素晴らしい空が高かった。

古山さんが、先日と同じような恰好で改札の前におられるのを眼にして、

私はとても大切な人に待って頂いていると高ぶる気持ちを抑えるのに苦労

した。

「お早うございます。済みません、お迎え下さいまして有難うございます」

「お早うさんです。良くおいでなされた。今日はお天気も良いし、山歩き

には最高の日ですな」

古山さんの軽トラックに乗り込む。私はザックから日本酒の包みを取り出

して古山さんに手渡した。

「あれ、こんな事せんでも良いのによ。申し訳ないですな」古山さんが恐

縮してそれを押し頂くようにした。運転席と助手席の間に包みを置いてエ

ンジンをかける古山さんの丸っこい手の甲の皺が伸びたり縮んだりして見

えた。

私の鼻は、微かな匂いを懐かしく嗅ぎ分けていた。父と母の匂いだった。

私は思わず深く息を吸った。匂いの記憶が呼び戻されて、故郷の、今は亡

き両親の傍にいるような錯覚に捉われた。古山さんの匂いだった。

古山さんが車を動かす。駅前の細い道から、山に向かって軽快なエンジン

音を響かせる軽トラックが進んで行く。慎重な運転をしながら、古山さん

が話し掛けて来た。

「吉野さんはあちこちの山を登られるんかいな」

「ええ、長野県の山に良く登りましたが、最近はこうした低い山を歩き回

る方が多くなりました」

「何時もお1人でかな」

「そうですね。殆ど一人で出掛けます。一人の方が気楽ですからね」

「怖くはないですか」

「別に怖いと思った事はないですよ。あまり危険な所へは行きませんもの。

古山さんは何処か遠くの山に行かれた事は?」

「わしはあまり高い山には登った事ないな。この仕事を請け負うようにな

ってから山歩きはしているが、他の山には登らんな。百姓仕事をしている

と、山登りに出掛けようなんて思わんわな」

「今のお仕事はどれくらいやられているんでしょう」

「そうさな、足掛け六、七年にもなるかな」

「そんなにされているんですか。じゃあもう何百回もこの山には登られて

いるんだ。凄いですね。だから道も整備されていてゴミ一つなく歩き易い

のですね」

軽トラックは少しずつ急になる道を唸りながら登って行く。私は時々運転

する古山さんの横顔にみとれていた。山が間近に迫って来て、道は更に狭

くなった。古山さんはあたかも自分の庭の中を走り回っているかのように

何事もなげに運転しているが、助手席の私は、シートベルトを握りしめて、

対向車が来ない事を願っていた。

やがて古山さんは僅かに広くなった場所に車を停める。登山道入り口から

少し離れているように思った。

荷台からザックを取り出して背負い、靴紐を締め直した。古山さんはリュ

ックを肩に掛けたままで、手拭を首に巻いた。

「良いかな。出掛けるとしようかのう」

古山さんが藪の中に踏み込んで行く。私も後ろに従って歩き出す。崖を登

りきるとそこは登山道だった。

「ここに出るんですね。何処へ行かれるかと心配しましたよ」

「近道だでね。わしゃ何時もここから登るんじゃ」笑いながら振り向いて

そう話す古山さんは、すっかり山の番人のお顔になっていた。

私は古山さんの後姿をカメラに収めた。暫く針葉樹の林が続く。所々に木

漏れ日がまだら模様を作っている中を、私は古山さんの後に続いた。

「昔はここは牧草地で、馬を沢山養っていたんじゃ。今じゃ見る影もない

が、それはそれは見事な草原だったな。わしなんか子供時分にゃ良くここ

へ来て遊んだもんじゃ。

友達も大勢いて、喧嘩もしたけど仲良しだったなあ。今じゃここに住んで

いるのは数える程しかなくなった。寂しい時代になったなあ」

「お家も沢山あったんでしょうね」

「ああ、昔は子供も多くて賑やかだった。ほら、そこの少し広くなってい

る場所があるじゃろう。あそこにも家があってな。トモちゃんという仲良

しが同級生におった。あの子も戦争に駆り出されて外地で戦死してしまっ

た」

「古山さんは戦争には行かれなかったのですか」

「わしは内地だった。広島の呉に勤めておって終戦を迎えたんじゃ」

「大変な時代を生きて来られたのですね」

少しずつ道の両側が落葉樹の林に変わって行った。葉の殆ど落ちた林は、

明るい日射しを余す所なく降り撒いたようだった。風のない穏やかな冬枯

れが静かに横たわって、古山さんと私は一つの静物のようにその中に組み

込まれていた。

少しずつ岩が現れて道は険しくなって行く。いつの間にか古山さんは枯れ

た細い木を手にしていて、登山道に落ちた枯れ枝を脇に避けたり、小さな

溝に落ちた葉っぱを手で払ったりしながら歩いていく。

「古山さん、今日はお仕事は忘れましょうよ」

「そうさな、でもつい手が出てしまうわ。癖になってしまっているからな」

笑いながらも古山さんの手は動きを止めなかった。

「休憩しましょうか」私はベンチを備えてある所で前の古山さんに声を掛

けた。

降り積もった落葉を払って古山さんの席を作り、自分の座る場所の葉も除

いた。

「今日はこの間と反対側の良い場所に案内しようと思ってるよ」汗一つ見

せない古山さんはリュックを背負ったまま腰掛けた。私は腰にぶら下げて

いたタオルを外して帽子の下の汗を拭い、ペットボトルの水を口に含んだ。

「反対側っていうと右側に入り込むのですね」

「そうだな。見晴らしが良くて風は通らないとっておきの所だわさ。春先

には冬眠から覚めた蛇がよく日向ぼっこしてるな。昔の街道の峠道だった

ところじゃよ」

「街道になってたんですか」

「そう、向こうの村に出ようと思ったらその道が近道なんだな。今は誰も

通らんが、結構盛った道だった」

再び歩き出す前に、私は古山さんのお姿をカメラに収めた。不思議な魅力

のある優しいお顔と小太りの姿がそのままカメラに取り込まれた。



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