忘れ得ぬ人


                                             夢追い さん





古山さんその3



私は古山さんの後ろに従いながら、冬の支度をほぼ終えたような山の気配

の中に佇んでいるであろう小さな動物達の足跡や脱ぎ捨てた夏毛の痕跡で

も無いものかと眼をこらしながら歩を進めていた。針葉樹林を抜けた所で、

私は道端の崖に残された小さな足跡を見つけた。

「古山さん、これはリスでしょうか?」

私の声に振り返った古山さんが戻って来てその足跡を確認する。

「あなたも良く観察しながら歩く人だねえ。これは多分ムササビだと思う

のだが。珍しいなあ、ムササビが地面を這い廻った跡が土に残っているな

んて。これはきっと夕べの事じゃあるまいか。新しい跡のようだし」

「ムササビですか。でも、どうしてリスではなくてムササビだと思われる

んです?」

「リスはこの辺りにはあまりいないんじゃ。クルミやドングリの多い所で

ないとあの子達は駄目なんだろう。ムササビは一度高い樹に登ってから飛

び立つし、巣も杉の木の洞に作る事が多いんだ。ほら、足跡を見てご覧。

前足と後足の大きさが一緒だろう?

リスは後足が大きいからね。糞でも残ってるともっと判り易いんだがな」

「へえ、初めて知りました。古山さんは何でもご存じなんですね」

「わしはずっとここで生きて来たから大概の事は判るよ。と言っても山の

話だけだがね」と古山さんは嬉しそうに微笑んだ。足跡を写していたカメ

ラを、私は可愛い笑顔に向けた。この方がこの世界の人だったらと私は不

埒な事を考えていた。

先を進む古山さんの踏み跡をなぞるように後をついて行く事が、古山さん

の心を自分に向かせる早道だとでもいうように、私は忠実になぞって行っ

た。

「恥かしいんじゃが、わしはちょっとばかし俳句を習っておってのう、こ

こに来る度に手帳に書き留めているのよ」突然古山さんが尻のポケットか

ら色あせた赤い手帳を取り出して見せた。

「俳句ですか、素晴らしい事ですね。じゃあ、今良い句が浮かんだのかな」

立ち止まって短い鉛筆で書きこんでいる古山さんに、私は更に親近感を感

じていた。

「実は私は少し詩を書くんですよ。私も手帳を持ち歩きます」そう言って

私も胸のポケットから手帳を取り出して古山さんに見せた。

「出来たての句見せて下さいませんか」私は古山さんに接近した。古山さ

んは本当に恥ずかしそうに手帳を私に差し出した。

『踏みしだく 落葉の上に 陽はこぼれ』

几帳面そうに丁寧に書かれた句が古山さんの穏やかな心情を見事に表わし

ているように思えた。

「私はあまり俳句の事は分かりませんが、素晴らしい句ではないんでしょ

うか」私の言葉に嬉しそうに微笑んだ古山さんが歩きながら話す。

「地区の老人会の句会が毎月あって、五句づつ持ち寄って合評会をするん

ですよ。
S市から先生を呼んで勉強会をしたり、句集を出したりと、まあ、

年寄りの一つの楽しみになってるがなあ」

「素晴らしい事ですね。古山さんはこれまで何句ぐらい作られたんですか」

「ノートにずっと書いているが、この間五百句超えた」

「句集にすればいいですよ。お手伝いしますから、作りましょう」

「難しいなあ。所で、吉野さんは詩を書かれると言われたが」

「ええ、詩集を一冊出しました。今度お持ちしますよ。読んで下さい」

いつの間にか尾根に出ていた。古山さんが右に折れて行く。私も従った。

尾根道は歩き易かった。小さなアップダウンを繰り返しながら道は続く。

やがて前の林が切れて、そこから下りになる前の小さな開かれた場所に出

た。古山さんが足を止める。

「少し早いがここでお昼にしましょうや」

「成程、ここは風も通らない日溜まりの中ですね。流石は古山さん、お昼

の場所として最高じゃないですか」私達はザックを背から降ろして別々に

横たわった太い倒木に腰を掛けた。古山さんはお茶を紙コップに注いで私

にも渡してくれた。私は、持参したバナナと小さな羊羹をお返しする。周

りは殆ど音のない世界で、小さな空間に二人だけで閉じ込められたような

緊張感と安堵感があった。高い空を白く飛行機が線を引いて飛んでいた。

私は、古山さんの形の良い、可愛い口がお弁当の白いご飯を噛み下して行

くのをうっとりと眺めていた。私は菓子パンを口元に押しつけたままだっ

た。

ふと眼が合って、私は慌てて視線を外した。

「この街道はな、それはそれは賑やかだったよ。今は道も細くなったが、

当時は馬も通れる立派な道で、荷を積んだ馬が行き来したものだ」

「でも随分急な所もあったのでは」

「そういう所はジグザグに道を作ってあったな。喉自慢の馬子がよく唄を

聞かせて通ったものだった」

「何だか情景が浮かんで来るような気がしますよ」

あっと言う間の楽しい昼食だった。古山さんは弁当箱を戻したザックを枕

にして横たわった。枯葉がクッションになって気持ちよさそうに眼を閉じ

ている。私はどぎまぎして写真を写すそぶりをして傍を離れた。少し離れ

てからレンズをズームして古山さんの寝姿も撮った。連山の彼方に白い山

が見えていた。枯葉を踏んで、私は明るい藪の中を歩き廻った。このまま

時が止まってくれたらと思った。

二十分程して戻ると、古山さんは眼を開けていた。

「お休みになれました?」

「うん、うとうとしたみたいだな。あんたも横になれば良かったのに、気

持ちいいものだよ」

「古山さんの眠りを邪魔しちゃいかんと思いましたから」

「さてと、下に降りたらちょっと山の中を走ってみようか。別の道で駅ま

で送るから。別に急ぎはしないだろう?」

「ええ、大丈夫ですよ。お願いします」

尾根を伝って分岐点まで出て、下りの道に入った。古山さんはまるで駆け

下りるようにずんずん先に行く。流石に長年鍛えた足腰だと感心しながら

私は後を追った。針葉樹林帯に入って少し平坦な所で、古山さんは仮の杖

を捨てた。まるで仙人のようだと私は思っていたので、その事を古山さん

に伝える。

「仙人はもっとほっそりしているんじゃないかな」と古山さんが笑う。

車を停めていた場所まで戻って、並んで用を足した。ザックを荷台に置く。

小気味よいエンジン音を上げる軽トラックの助手席に乗り込むと、またあ

の懐かしい微かな匂いが鼻を擽って来た。私は深呼吸をしてその匂いを胸

に送り込んだ。母の顔が浮かんで来た。

途中から細い山道に入り込む。対向車があったらすれ違う事は難しいと思

われる道を、古山さんは躊躇なく進んで行く。小さな沼の畔に出て、車を

停めた古山さんが教えてくれる。

「春先にはね、ここから少し入った所に駒鳥の姿を写しに来るお客さんで

この廻りは駐車出来ないほどになるですよ。わしなんかからすれば別にど

うって事もないのに、都会の人はそんな事でも押しかけて来るからね。面

白いものだ」

「駒鳥ですか。私も見た事ないですね。鳴き声も良いんでしょうね」

「襟巻を巻いたような姿が良いんだろうな。声は何と表現したらいいか分

からんが、鈴を転がしたようなとでも言うかな。可愛いもんですよ。昔は

あちこちでお目にかかったが今は本当に少なくなったみたいだな」

沼を離れて少しずつ山道を下って行く。

「句集のことですけど、古山さんのノート今度お借り出来ませんか。私パ

ソコンで作ってみますよ」私は古山さんを口説いていた。古山さんは駄句

ばかりだから恥ずかしいと謙遜する。駅に着くまで何度か嗾けたが古山さ

んは承知しなかった。その代りノートは今度見せてあげると約束してくれ

た。私は詩集を差し上げる事を約束した。

駅に着いて、ザックを荷台から降ろして背負い、狭い駅前に車を駐車して

おけないと帰る古山さんにお礼を言い、握手をして別れた。握手は少し抵

抗があったようだったが、構わず私は強く握りしめた。

駅の売店で缶ビールを買って、疎らな乗客の中で静かに飲んで帰った。



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