越刎さんのエッセイ №13                 .




九谷焼について(2)



ところが30年ほど前、サントリ美術館や国立博物館の人が「古九谷伊万

里焼説」が出てきて、これに反発して地元の山中温泉では古九谷修古展を毎

年開き始めました。これを契機に古九谷の歴史に興味を持ちました。

 

今からおよそ350年前に北陸の加賀国江沼郡九谷村(山中温泉より奥に

4里ほど行った山峡の村)で、九谷焼が誕生しました。

 

 ところで3代前田藩主・利常は119万石の一番大きな外様大名で徳川幕

府は常に警戒していました。利常は鼻髭の殿様とあだ名されるくらいバカ殿

様を装っていましたが、内では都より友禅、漆器、茶道など文化工芸に力を

入れていました。その一端に当時肥前鍋島藩で作られ始めた上絵磁器を何と

してでも領内でと金沢から離れた九谷村に起こそうとしました。

 

なおその前利常は寛永16年(1639)に長男・光高(4代)に藩主を譲り、

小松に隠居しました。この時、次男・利次に富山藩10万石、三男・利治に

大聖寺藩7万石を分け、支藩として独立させました。それまで119万石の

加賀藩を光孝80万石、自分は養老領22万石で102万石に減らしました。

 

大聖寺初代藩主・利治は利常の意向をうけ、九谷村にまずは金鉱を探そう

として本藩より鉱山師(錬金師)の後藤才次郎を連れてきて探しましたが、

金は発見できませんでした。その代り磁器に使える陶石を発見しました。幾

多の苦難の末、明暦元年(
1655)頃に色絵磁器の生産を始めたとされていま

す。この苦労話は謎が多くいろいろの人が小説などに書いています。

 

ところで古九谷焼を焼いた九谷古窯は、元禄から宝永初年(1710)ころに

廃絶したとされています。古九谷に関する一切の古文書が残されていません。

それは徳川幕府に発覚されては困る事実があって、大聖寺藩が製造禁止した

と言われています。これに関しては(3)以降にお話しします。

 

先日古九谷古窯の跡を見に行きましたが。数年前の姿は全く見られず公園

になっていました。

 

<古九谷古窯の跡>

 

 

 「古九谷の窯跡に咲く夏薊」

 

1号窯は幅2.6m、長さ34mの連房式登窯、12の焼成室(1670年前後30年)

2号窯は幅1.6m、長さ13mの連房式登窯、6の焼成室(1710年前後40年)

 

<以前の窯跡(上・本窯、下・下絵付け窯)>

 

<窯跡説明板>

 

絵付け窯跡は公園になっていました。

 

<前田利治公の石碑>

 

<後藤才次郎の石碑>

 

 「古九谷の窯跡尋ね梅雨晴間」

 



                                        (つづく)










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