越刎さんのエッセイ №14                 .




九谷焼について(3)



 後藤才次郎が苦心をして古九谷を完成させた話は、いろいろの人が小説を

書いていますが、今回は地元の教師の小納弘氏の「五色の九谷」についてあ

らましを書いてみます。

 磁器と言えば英語でchina=支那(当時は明)と言われるように昔の中国で

南京の近くの景徳鎮を中心として生産をしていました。因みに漆は
japan

陸続きの朝鮮もそこそこの磁器も作っていたと思われます。豊臣秀吉の朝鮮

征伐のあおりで多数の陶磁器職人が日本に渡って来ていました。中には長崎

の出島を通して支那人の磁器職人も入っていたと思われます。長崎に近い鍋

島藩はいち早く彼らを使って磁器の生産を伊万里や有田で行っていました。

赤絵で有名な酒井田柿右衛門が輩出した頃です。この赤絵磁器は高価でした。

 一方大聖寺藩では全く磁器を焼く技術は分かっていません。藩主の前田利

治は銀吹座役として金沢より連れて来た後藤才次郎定次にだめになった金山

に代わる新しい産業に色絵磁器を焼くことを研究せよと命じました。当時陶

器の吸坂焼(朝鮮人が作った)を参考にしてと焼物を渡して命じました。

 そこで京から来た陶工の田村権左衛門と息子の忠清を連れて山奥の九谷に

行きました。その前利治が大聖寺に来てすぐ九谷で金山を発掘していました。

ここに山師に従った流刑人を人夫として仕事をしていました。それを監督す

るのが腕の立つ浪人でした。

 まずかた焼き(石を焼く・すなわち磁器)に使う陶石を探すのが第一です。

金山で金を掘る時に何か陶石らしきものを見付けるまで2年かかりました。

この陶石を細かく割って石臼で粉に挽きます。その粉を水に浸してそこに溜

まった粘り気のある粉を坏土で主に長石や石英からなっています。火山帯に

出土します。

 ところで加賀藩の4代目光高は財力にいわせ長崎に加賀藩買付所を設けて

いました。また鍋島藩と大聖寺藩は姻戚関係にありましたので、肥前で作ら

れた上絵磁器を容易に買い付けが出来ました。

 定次と田村権左衛門が陶石を発見したことを藩主利治に報告に藩邸に上が

りました時、利治は高価な赤絵南京皿と肥前・柿右衛門赤絵皿を二人に見せ

これを越える色絵磁器を作れと命じ、その大皿を刀で割ってそのかけらを二

人に与え研究しろと命じました。藩は財政難でしたが、藩主の美に対する思

い込みは強く、後押ししました。

 九谷に帰る時定次を尋ねて李という朝鮮人が訪ねてきました。彼は登り窯

を作る技術がありました。彼の設計した窯でまずは素焼きから始めましたが、

失敗を繰り返し2年経って初めて真面の素焼きが出来ました。素焼きに呉須

で書いて釉(うわぐすり)を着けて焼き上げたのが染付というものですがこ

こにただりつくまでかれこれ5年の歳月がたちました。素焼きに塗る釉薬に

なる石を求めて方々の山を駆け回りました。

 一方本焼きの登り窯ですが、これもまた失敗を重ねました。高温が出せな

いのです。松の木を細かく割って上手く焚ないと1300℃まで上がりませ

ん。当時は温度計なっる物がないので炎の色を見て温度を感知するのです。

登り窯では横に松を投げ込む口の他、炎の色を見る覗き口も付いています。

 一方大聖寺藩が出来て17年目には藩の財政が困難になり金山の中止と多

くの武士を本藩の金沢に戻しました。しかし利治の強い意志で九谷焼はます

ます力を入れました。

 やがて明暦元年(1655)やっと坏土に合った釉が見つかり、それに応じた

焼き方も出来
初めて呉須で田村権左衛門が素焼きの花いけに「南無八幡大

菩薩、明暦元年六月二十日」を銘を入れて釉を掛けて本焼きに成功しました。

実に九谷焼に取り掛かってから20年も歳月が過ぎました。

 この花活けをもって忠清は藩主利治公に参上しましたが、藩主はその花活

けを九谷の神社に寄進せよと命じました。藩主はその磁器を見て李朝風だと

九谷独特の磁器を作れと命じました。


 「雲の峰さらなり磁器と強き意志」



                                        (つづく)










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