越刎さんのエッセイ №15                 .




九谷焼について(4)



 「雲の峰意志の強さよ九谷焼」

 

 かた焼の焼き物白い磁器を焼くことが出来ましたが、色絵への道は遠か

った。色絵の絵の具が分からなかった、いろいろの金属のさびを試して焼

きつけるのですが
年の歳月が経った。

 万治3年(1660)4月藩主利治が江戸屋敷で死去、43歳の若死に、定次

は前途を苦慮しました。さらに片腕の田村権左衛門は
80歳の老齢で九谷を

去りました。

 

 本焼を済ませたその焼物の肌に、色絵を描いて焼き付けることがどうし

ても出来ませんでした。

 2代藩主になった利長(利治の弟)も利治の意志をついで何としても色

絵磁器を作るため、定次の息子の忠清に肥前に向わせました。

 しかし鍋島藩は色絵磁器の製法を門外不出として厳しく取り締まってい

ました。朝鮮人以外の他国(他藩)者の存在も認めませんでした。それで

忠清は赤絵町といわれた有田の街の外れの陶工の採石場に土取りの人足に

なりました。何とかして色絵の現場を見たいと思っていましたが、寛文3

年(
1663)の秋、石を持って赤絵町の門を入りました。そこで色絵の絵具

がどのような原料で出来ているか、仕上げ窯で焼き物を焼いているところ

を見てみたいと思っていましたが、全く見れず返って怪しまれて、逃げま

した。彼の連れの者と一緒に逃げたのですが、その彼が明から来た陶画工

だというのとが分かりました。彼は明がその当時内乱で戦ばかり。焼物を

したくて日本に渡って来たと言いました。忠清は彼を大聖寺に連れて行こ

うと思いました。

 

 その後有田川を下った木原という村の焼き物屋に何とか雇い入れられま

した。そので4年間下働きから陶土をこねる仕事までさせてもらいました

が、忠清の知りたい上絵のやり方は依然分からずじまいでした。ある晩こ

っそり上絵の小屋に忍び込んだのを主人に見つかりました。この主人は立

派な人で、彼を役人に突き出さず、上絵の原料(えのぐ)は日本では取れ

ない。長崎で明より買い付けていること、焼き物にはその土地の土に合っ

た焼き方があると教えてくれました。

 

 そこで藩と連絡を取って長崎の加賀藩買付所に行きました。そこで思わ

ぬ人物に遭遇しました。浅井主税です。その人は承応
年大聖寺藩を浪人

して妻と九州に焼き物を調べるために渡った人で九谷の金山奉行の土田清

左衛門の娘婿でした。そこで三つの桐の箱に入った色絵磁器を見せてくれ

ました。主税は熊本藩に仕え、金を貯めて高価なものを買い求めていまし

た。それは伊万里焼、柿右衛門そして色鍋島でした。

 

 さらに彼は二人の明人を紹介しました。この二人は加賀前田藩代目藩

主利長公が明の景徳鎮へ修行に出した人の弟子だとのことでした。その人

は加賀に帰らず鍋島で焼き物に携わり故郷の伊勢ですでに亡くなったそう

です。忠清はこの二人を連れて大聖寺に帰って来ました。勿論上絵のえの

ぐも買い求めました。

 

 寛文7年(1667)船で加賀の金石港に辿り着きました。一方定次は大聖

寺の藩邸内で錦がまという仕上げの上絵を焼く窯をつくり紺青、緑、黄、

紫の
色は何とか出るようになっていました。そこへ長崎から仕入れた明

のえのぐを加え見事な上絵磁器が描き上がりました。九谷へ行って以来

20数年がたちました。定次も
60歳をとおに過ぎていました。

 

 その後九谷陶器所は定次、そこでできた白磁を大聖寺まで運んで、仕上

げの大聖寺陶器所は忠清は監督しました。九谷独特の焼き物を作るべく唐

人や朝鮮人以外の絵描きを求め古九谷独自の色絵磁器(五色の器)を完成

しました。実に
30年近く経ちました。



                                        (つづく)










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