魔 王




                                    栗花落(つゆり) さん 



第一部 第一話



Mein Vater, mein Vater, jetzt fasst er mich an,

Erlkönig ha mir ein Leids getan.

お父さん、お父さん、魔王がぼくを捕まえた

ぼくを痛い目にあわせるよう。

 

数か月に一度きまって明け方近く、眠りと覚醒のはざまをしばらく漂った

あと、おれは螺旋階段を伝い濃い闇の中へと降りてゆく。夢は深層心理の

織りなす妄想にすぎず、現実とは創造的な関わりを持たないと言う人もい

る。だが太古のギリシャ人たちに倣い、夢は秘密の告知者、予言者だとお

れは信じたい。果てしなく長い階(きざはし)をようやく降りつめると、

そこは小さな霊廟(れいびょう)だ。燈明の青ざめた光のもと、ガラスの

棺の中に敦行が眠っている。定規で引いたかのように端正な鼻筋、引きし

まった肉薄の唇、男らしく張った眉、肌は睡蓮の花弁のように淡い紅を浮

かべながら、しっとりとした光沢を帯びている。切れ長の瞼の奥に閉ざさ

れた瞳は、大きく目を見開くとき濡れた菫色の輝きを放つ。ほんとうに美

しい子だった。「起きなさい、敦行!」おれは三十年前のあの日のままに

呼びかける。あの時この子が何を見たのか、おれは知りたい。おれの問い

に応えこの子が一つの徴を示してくれる日はきっと来る。

 

三月のあの日、微風を受けて翻る木の葉の動きを画面に再現するのにおれ

は夢中だった。たとえばカンバス上で羽を休めている蝶が、視角を少しず

らすだけで今にも宙に舞い立つかのような動きを暗示することがある。そ

れは動きに入る寸前、一瞬小さな身体の隅々まで力を漲らせる蝶の姿態を

精緻に把捉すれば表現できる技法なのだ。木の葉一枚一枚の動きを追い神

経をすり減らす作業が一段落したとき、不意に立ったつむじ風の肌を刺す

冷たさがおれを我に返らせた。登山用のリュックサックの中に寝かせてい

た敦行の様子を見る。前夜からむずかっていたのを家に残しておくわけに

いかず、気まぐれな三月の陽気に騙されて写生に連れてきていた。眠気を

訴えるので厚い毛布を幾重にも巻きマフラーで首を埋めておいたのだが、

その姿勢のままぐったりしている。額に手をやると火のように熱い。リュ

ックを背負ってすぐ病院に駆けつけると急性肺炎と診断され、そのまま入

院という運びになった。翌日の夕刻には容態が持ち直したのか、ガラス箱

のような酸素テントの中から小さい声で「パパ」と呼んでくれた。嬉しさ

のあまり抱きしめようとしてテントをめくりあげ、看護師に叱られたっけ。

その夜のことだ。安堵して気が緩み椅子に座ってうたたねをしていると、

耳元で鋭い叫びがした。敦行がかっと目を開いて頭をもたげ、病室の天井

の一か所を見つめている。あどけない幼児の顔が恐怖に怯え、醜く歪んで

いるではないか。驚いておれもその方向に目をやったが、何もない。そし

て敦行へと視線を戻すと、赤みを取り戻していた顔がいきなり蒼白になり、

ベッドの傍のモニターが鋭い警告音を発しだした。呼吸が止まったのだ。

心臓の発作時には起こりがちです、と医師は敦行のあの時の反応を説明し

たが、いまだにおれは信じられない。医者がどう手を打っても、まるで死

霊に魅入られたかのように、幼ない心臓は二度と鼓動を刻むことがなかっ

た。

千鶴子を捜すことはとうに諦めていた。もともとおれのところに押しかけ

てきて居座った勝手気ままな女だ、酒場暮らしが性に合っているのだろう、

敦行を生んで数か月後ぷいと姿を消した。おれは敦行が不憫でならなかっ

た。経帷子を脱がせ、おれも全裸になり強張りはじめた小さい身体を胸元

に寄せ、その上から毛布を巻いて一夜抱きしめた。イエスが発した「タリ

タ・クム(オキテアルケ!)」という蘇生の呪文を時折呟いてみたりした

が、その都度青ざめうなだれたキリストの姿が目前によぎるのを幻に見た

ような気がする。長かった夜が白々と明ける頃、庭から清冽な香りが流れ

てきた。沈丁花の花だ。この先、春を告げる花の香りに触れるたび、魂の

凍えるようなこの夜伽を思い出すことになるかと思うと、不覚にも涙が零

れた。せめて絵の技量を上げ、岸田画伯の「麗子」像には遠く及ばぬにせ

よ、敦行の肖像を人々の記憶にとどめてやろうと誓ったものの、いまだに

おれは売れない画家だ。その後も何人か女が寄ってきたが、あの頃の女は

みんな子供を欲しがった。とんでもない、おれの子は敦行ひとりだ。それ

を察知するとどの女もみな去っていった。そして・・・

 

「凄い!ムーミンパパのご登場だ!」と叫んで、いきなり抱きついてきた

三十がらみの小デブを突き飛ばさなかったのは、酒のせいだ、そいつの白

い童顔がちょっぴり敦行を想わせたのだ。絵描き仲間の宴会の後、「次は

わしのおごりや、ナポレオンを御馳走するで。昔ひばりがコーラで割って

飲んどったのと、同じ極上もんや」とか言いながらまとわりついてきた八

木に、引きずり込まれたのがこの怪しげなバーだった。なぜかこの日は酒

の回りが早く、足元のふらついているのが自分でわかった。カウンターに

座るとすぐ、そのデブがしな垂れかかる。梅雨明け直後の猛暑日のこと、

喉が焼けるほど渇いていた。そいつの差し出したグラスを呷ると、激しく

むせた。ビールのつもりが、度の強いブランデーだ。頭の芯が痺れ、そこ

でいったん記憶がとぎれている。

気が付くと、おれはベッドにあおむけだ。おれの乳首を吸っている奴がい

る。どうやらさっきの小デブらしい。こんなところに快美の壺があったと

は。心地よさに思わずため息が出た。ふふふ、とデブは得意げな含み笑い

を漏らす。乳首からわきの下へ、そこからさらにおかしなところを狙って

這いずりまわるそいつの舌と唇の波状攻撃を受け、恥ずかしながらおれは

発情していた。やがて男はさらに体を沈め、いきなりおれの猿股をむしり

取る。ため息とともに、「でかい!」と嘆声を漏らしている。どうだ、参

ったか!おれは大学の相撲部ではハマの巨砲(おおずつ)と異名をとった

男だぜ!と、下腹部に妙な感覚が湧いてきた。自分の腹に邪魔されてよく

見えないのだが、両腕でおれの股ぐらを抱え込み、おれのちんち(敦行に

教えた幼児語だ)を咥えたらしい。ねろねろと舌を使っているようだ。男

の役目は愛すること、愛されることではない、だから射精の快感しかおれ

は知らない。ところが、これは何だ。ちんちの柱から快美の波が渦巻きな

がら下腹部へ、さらに太ももへひたひたと広がってゆき、甘い律動を繰り

返す。発射の時よりはるかに心地いい。思わず身体がのけぞり、くぅーっ

と太い呻きが漏れた。尻がひとりでにがぶり寄りだ。するとおれを受け身

型だと見なしたのか、白豚はやおら姿勢をいれかえ、いきなり頭と足を逆

にしておれの体の上に跨ってくるではないか。しかもちびた鉛筆じみた陰

茎を一人前におっ勃て、そいつを指でこすりながらおれの口元に押し付け

てくる。よせ!と叫んだが、遅かった。よほど興奮していたのか、白豚が

黄色い裏声を上げた次の瞬間、鉛筆が間歇的に嘔吐する。白子の水鉄砲だ!

ぬらぬらした臭い糊がおれの顎から首のあたりに飛び散った。「ぶっ殺す

ぞ、てめえ!」と喚きながら、掛け布団をひっぺがす勢いで男の体を脇へ

跳ねのけると、相手は宙に飛んで背中から床に落ちた。ズシーンと豪快な

地響きがしたが、構わずバスルームに飛び込む。汁の飛んだあたりの皮膚

が赤むけするほどソープをすりこみ、シャワーを全開にして巨砲と玉錦が

ふやけるほど湯を浴びに浴びた。浴室から出てくると白豚はいまや潰れた

青蛙だ。床に這いつくばり、打ち所が悪かったのかうんうん唸っている。

ちょいと調子に乗りすぎたな、ブーやん!身支度を整え、財布を覗くと使

い勝手の悪い2千円札が一枚あった。そいつをサイドテーブルに置くと、

おれはそのまま部屋を出た。

 

 八木が仲裁に入ったが、治療費と慰謝料の支払いをおれが撥ねつけたた

め話は拗れた。

憎々しい顔をした猪八戒が廃品回収車を家の前に乗りつけて、マイクを使

う。「ごみや屑をお出しください!ここに住んでるホモおじさん、自分の

体を袋に詰めて、戸口の前に並びなさい。あんたは人間の屑なんだ!」屑

は貴様だ、卑怯者、これでも食らえ!おれは木刀を振りかざし、軽トラッ

クの運転席に打ちかかる。すると車はべこんと潰れ、しばらくぐにゃぐに

ゃ動いていたかと思うと、突然飛行機の形になり、ぶいーんと蝿の親玉の

ような羽音をたてて空へ舞い上がる。空から声が降ってきた。「下にいる

のがホモ親父。さあ、上から小便をひっかけて退治しましょうぞ!」―こ

んな夢に一時悩まされたものだ。

 

(この作品にインスピレースションを与えて下さった敬愛する花栗さんに、

心から感謝します。)



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