魔 王




                                    栗花落(つゆり) さん 



第一部 第三話



一流ホテルのロビーはさすがに華やかだ。空間を四分する屏風のように設

営された大きな竹細工の格子に、量感のある欧州朝顔の青い花を絡ませる

意匠は素晴らしい。指定された時間の二十分前ここに着いたものの、いま

花を愛でる余裕はない。ことはセラピーだ、おれに何ができるのかを判断

するためにも、頭の中を整理しておかなければ。

八木が取り次いだ仲介者はおそらく精神科医だろう、メールでAと名乗り、

Aの指示に従っておれは苗字(
Kikuchi)と、個人情報(59歳、176センチ、

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キロ、短髪)を記し、目印にファーブルの『昆虫記』大型版を携行する

と返信した。これから会う
Ohtomoは鬱病だという。ひょっとしてロビーの

一隅からそっとおれを観察して、気に入らなければ黙って消えていくつも

りかもしれない。

 

運ばれてきたコーヒーを啜りながら、想定した事態を反芻していると、ふ

とグランドピアノの向こう側にムンク展の大きなポスターが吊ってあるの

に気づき、反射的におれは目を反らせた。『叫び』は嫌な絵だ、あの日の

敦行の恐怖に凍り付いた表情を思い出させるからかなわない。だが、つい

で起こるピアノの試し弾きの音を耳にして心は和んできた。グランドピア

ノに向かっているのは、遠目には顔の輪郭が辻井伸行に似た若者だ。そう

いえば、ここは芸術大の学生が時折ピアノ演奏に起用される。秀抜なその

演奏を聞くため、わざわざ一杯二千円の茶を飲みに来る客もいるらしい。

珠玉を転がすような音をたてながら、小気味よく鍵盤をはじく学生の指先

を見ていると、その脇を通り、ちょうど『叫び』の絵をおれの視線から遮

る地点に誰かが立った。

 

眼差しを上げてみて、その人の姿におれは目が吸い寄せられた。年齢は三

十代中頃だろうか、やや小柄なふっくらとした体を淡いベージュ色の夏服

に包んでいる。横顔の特徴を一語で表すならみずみずしさだ。長いまつ毛

の下からまっすぐ前方を見つめる大きな瞳は艶やかで、白い肌は象牙色に

輝いている。鼻筋が通り、口元はきりっと締まって何かしら頑なな印象を

与えるものの、頬の描くなだらかな曲線は柔和な性格を暗示するかのよう

だ。とりわけ目を引くのは男らしい眉だ。顔の他の器官が周りとの妥協に

傾きがちなところ、これらを叱咤激励して統率する若き将軍のような凛々

しさがある。ひょっとしてあれが
Ohtomoなのだろうか。まさか!病の翳り

など溌溂としたあの男のどこに認められよう!しかも、遠方の席にいる誰

かに丁寧に挨拶を送っているではないか。頭を下げた拍子に前髪がふわり

と浮き、秀でた額に柔らかく垂れかかる。すると表情がいっそう若々しい。

ぼんやり眺めていると、男は不意におれの方に向き直った。互いの眼差し

の交錯した瞬間、相手の頬に小さく浮かんだ笑みがゆっくりと顔の全体へ

広がっていく。

 

そして男がこちらに向かって歩みだしたその時、ピアノの演奏が始まった。

のっけから感性のすべての領域を奏でつくそうとする急速なパサージュは、

『エチュード
12番』だ。いのちの賛歌と評される振幅の大きなメロディー

と、大海にうねる怒涛のような壮烈な音調が、せめぎあいながらみごとな

綾を成す。だが、挫折した祖国の革命運動への痛恨の念をショパンが鍵盤

に托しただけに、そこには暗い予感と絶望の悲哀が伏在しているのだ。幾

度も聞きなれた作品でありながら、おれは今日の演奏にいつにない興奮を

覚えていた。これまでに経験した喜怒哀楽を圧倒的に凌駕する巨大な歓喜

と悲哀が、一挙に襲いかかってくるような予感にいまおれの胸は戦いてい

る。

なぜなら、男が正面を向いた瞬間おれは鳥肌が立ったからだ。視角が変わ

り、稜線を失った男の鼻はぽっちゃりと丸みを帯びた。それに伴い、容貌

の全体から一種のあどけない初々しさがにじみ出てきたのだ。そして、お

れの意識の表層を捲るようにして、思惟の網膜にガラスの棺の中に眠って

いる敦行の像が映し出されてきた。その顔が、含羞の色を頬に浮かべて歩

み寄ってくる男の顔と寸分の狂いもなく、ぴたりと重なる。いまはすぐ前

に立つ男が会釈しながら柔らかいバリトンを響かせた。「初めまして、オ

オトモ・アツユキです」。魂の奥底から、激しい喜悦があげ潮のように渦

巻き噴きこぼれてくる。周りに誰もいなければ、おれはその場に跪き、天

を仰ぎ地にひれ伏して慟哭したことだろう。これが夢なら、永遠に覚めず

にいてほしい。帰ってきてくれたのだ、敦行が。



                                                  続 く 









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