魔 王




                                    栗花落(つゆり) さん 



第一部 第四話



「この丸いのが伝助、マルチーズさ。あっちのとんがったのが長助。シェ

パードの血の混じった雑種なんだ」。淳之の車でおれはひとまずわが家に

向かうことにした。わが家と言っても、家族はこの二匹だけ。軽薄な伝助

は客が来ると喜んで騒ぎ立てる。しゃがみ込んだ淳之の膝に跳びつき、股

下をかいくぐり、またぐらの臭いを嗅いだりして、醜態の演じ放題だ。犬

は飼い主に似るとよく言われるだけに、おれはひとり赤面した。犬をおと

なしくする手があるにはある。小指に唾をつけて尻の穴に突っ込むんだ。

犬は自分が便意を催したと勘違いし、その場にしゃがみこんでおとなしく

なる。猟犬を数頭飼っている友人などは先端がすんなり入るので、細い蝋

燭を懐中に忍ばせておき、犬が騒ぐとそいつを使うらしい。だが大事なお

客さんの前で下品な真似はできない。一方長助は、庭の隅から胡散臭げに

横目でこちらを観察している。保健所で処分される寸前引き取った犬だ。

小さい頃よほど辛い目にあったのか、おれが餌をやるときも尻尾の先をぴ

りぴりっと震わせるだけで、決して心を開かない。そう聞いてふと眉を曇

らせた淳之が「長助くん、おいで!」と呼ぶと、驚いたことに世をすねた

この偏屈者がのっそり立ち上がり、淳之の前でお座りをするではないか。

しかも頭を撫でてもらうと尻尾を大きく振りながら、喉首をさらけ出して

ごろんと寝転んだ。連中の仁義では、アツユキ親分、チョースケこのいの

ちを捧げやす、と契ったことになるらしい。「犬と気が合うときも、やっ

ぱり馬が合うと言うのかな?」「ぼく戌年生まれなんです、おまけに母方

の姓が犬丸」。他愛もない言葉を交わしながら、客人を二階のアトリエに

案内する。

 

レモンティーと竹細工の籠に山盛りに積んだ明治屋のビスケットをテーブ

ルに出し、砂糖をまぶした輪切りのレモンを齧りながらおれは単刀直入に

淳之に尋ねた、おれはきみに何ができるのか、と。一口紅茶を啜った淳之

は、このアトリエで二週に一度、一時間ほど一緒に遊んでください、と言

う。体の大きな熟年の方の前だと幼児期のぼくが甦るらしいのです。成人

のぼくはその間いわば熟睡しているようなもので、幼児のぼくのやったこ

とは記憶に残らないのですが、「子供返り」を経験するようになってから

鬱病が治りだしました。二年ほど前からぼくは自分の存在が希薄になり、

風に吹かれて消えてしまいそうな不安に苛まれていたのです。眠れず、食

は進まず、仕事も手につかない。一時は退職も覚悟していました。症状が

劇的に緩和したのは、風間先生のおかげです。ぼくは省庁からロシアの大

使館の書記局に派遣されることになり - 省内の都合でその人事は最近

解消されたのですが ― 半年間の語学の特別研修を命じられました。外

国語大学の授業の聴講に加え、長年東欧の大使を務め停年後ある私大で嘱

託講師をなさっている風間先生のご自宅で、個人レッスンを受けておりま

した。

 

「ある晩秋の夕暮れのことです。急に生ぬるい風が出て、西の方角にどっ

しりと積み重なっていた雲がまるで墨を流したかのように陰鬱な色を帯び

ると、空のかなたのあちこちで稲妻が光りだしました。遠雷の強さや頻度

は強大な雷雲の接近を予告していたものの、雷の襲来は実に唐突でした。

いきなり鋭い破裂音とともに部屋の照明が飛び、次の瞬間強烈な光の塊が

生臭い匂いとともに部屋の中を飛びぬけます。耳をつんざくような轟音が、

続いてガラスの破砕する音が響きわたりました。書斎に面した庭の松の木

に落雷したのです。木は上から三分の一ほどのところで二つに裂け、宙に

投げ出された大枝が書斎のガラス戸の上部を粉々に砕きました。ほとんど

反射的に、ぼくはソファに並んで原文を解説してくださっていた風間先生

にしがみつきました。よくロシア人に間違えられるほど大柄な風間先生は、

文武両道の豪胆な方です。ぼくをしっかり抱きとめるとぼくのお腹を爪先

で軽くくすぐって、大丈夫だよ大伴くん、お臍は盗られなかったみたいだ

ねとおっしゃいます。体を密着させると先生の和服から葉巻とウイスキー

の香りに混じって、老熟した男性の臭いが濃密に立ちのぼってきました。

ぼくの頬を髭がちくっと刺したのは、先生が戯れにそっと顔を寄せてこら

れたせいかもしれません。「授業」の途中スコッチをひっかけ上機嫌にな

った先生から、ぼくはよくお仕置きをくらいました。つまらないミスを犯

すと、ぼくの顔に強い髭をじゃりじゃりこすりつけて、「髭の生えた赤ち

ゃんになりませんように」、と呪文をお唱えになるのです。何でも白ロシ

アでは赤ちゃんが賢い子に育つよう(つまり一人前に髭こそはやしている

ものの、乳児のように頭の空っぽな大人にならないよう)、老人が子供の

頬に髭をそっとあてながらこう唱える習慣があるのだそうです。ところが、

先生にはじめて強く抱きしめられたこの時、ふと、灯の落ちたうす暗い部

屋の中、先生のすぐ後ろに誰かがいるのにぼくは気づいたのです。ぼくの

知らない人です。それでいながらとても懐かしい人です。その人はぼくが

その人の存在に気づくのを、何年も、何十年も、じっと待ってくれていた

ような気がするのです。すると突然胸の奥から不思議な感情がこみ上げて

きました。それは喜びと哀しみと恐怖の入り混じった、なにか背筋が寒く

なるような不気味な感覚でした。そして目の前に突然萌黄色の空間が開け、

その色が茶褐色に変わったかと思うと、そこに真っ赤な飛沫が次から次へ

と飛び散り、ぬらぬらした赤が今度は黒に塗りつぶされていくのです。あ

まりの恐ろしさに、ぼくはそのまま気を失ってしまいました。しばらくし

て(三十分ほどだったそうです)ソファの上で目が覚めたとき、ぼくは自

分でも驚くほど爽快な気分になっておりました。先生はぼくの様子を見守

っておられたようで、心配そうに両手でぼくの頬を包んでから、きみはい

まお父さんの夢を見ていたのかい、とお尋ねになります。そこで、いいえ、

ぼくはぐっすり眠っていました、それに父の夢を見たことなどこれまで一

度もありませんと、ありのままに答えたのです」。

 

その後淳之は風間氏とともに大学病院を訪れ、精神科医の鮎川教授のカウ

ンセリングを受けたという。最初に風間氏が長く話しこみ、淳之への面接

は短時間で済んだらしい。鮎川教授は先日落雷を経験した日から鬱病が出

なくなったことを確かめ、風間先生を本当の父親と思いなさいと伝え、月

に一度カウンセリングを受ける手はずを整えて、面接は終わったという。

 

なるほど、八木の説明も時系列が少し異なるだけで、一応は正しかったの

だ。嵐の夕べに淳之が風間先生の背後に見たのは、多分父親のまぼろしだ。

それに続く夢の中で父親との再会を果たし、心が癒されたと考えてよかろ

う。父親への仲介役を今度はおれが務めることになる。結構な話ではない

か。そこで翌週の金曜の午後アトリエで会うことにし、その日はそれで別

れた。戻ってきたくれたアツユキと定期的に会える喜びで、おれは有頂天

だった。あのような結果が待ち受けていようとは、夢にも思わなかったも

のだ。



                                                  続 く 









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