魔 王




                                    栗花落(つゆり) さん 



第一部 第六話


「風間氏のメモ」その一



それから数日後、鮎川医師から手紙が届いた。おれが父親の代役を引き受

けたことへの、主治医の立場からの丁重な感謝の言葉とともに、少しでも

淳之の症状に異変が認められたら、すぐ連絡をいただくようにという要請

も記されていた。どうやら淳之の症状は、おれが考えていたよりはるかに

深刻なようだ。そうした心証をさらに強めたのは、同封されている風間氏

の書簡の写しだった。風間氏は淳之が初めて「子供返り」をした日からは

じめて、さまざまな懸念を詳細に記している。

 

「雷鳴に撃たれて頓死する危機を間一髪で免れたルターが「回心」して大

学を去り、修道院に入ったというのは有名な話ですが、あの嵐の日、凄ま

じい落雷を身近に経験することによって、大伴くんの精神も日常的な次元

を滑りぬけ、自ら封印した過去と対峙することになったのでしょうか。突

然気を失ったあと、彼はしばらく死んだように眠っていましたが、やがて

ばね仕掛けの人形のように跳ね起きました。そしてソファに腰かけたわた

しの足元に蹲り、動かない目でじっとわたしを見上げるのです。何かただ

ならぬことが起こりはじめていました。大伴くんは凛と引き締まった端正

な顔立ちです。ところがこの時、顔の器官はすべて、いわばしつけ糸が切

れたような具合でした。それは秩序を失ったのではなく、文明社会の規制

や、教養の縛りが解け原初的な様態に戻ったような、あるいはネット用語

で言う初期化され、蓄積されてきたすべてのデータが失効したような状態

と呼んでいいかもしれません。それはラファエロの描く幼児、あるいは狩

野芳崖の『悲母観音』の嬰児を思わせる、ただ可愛いだけで思想や感情生

活の年輪を削ぎ落とされたうすっぺらな顔でした。

 

そんな表情のまま彼がいきなり「パパ?」と問いかけてきたとき、わたし

は自分が今、いわゆる「子供返り」という稀有な現象に直面していること

を悟りました。深い精神的な傷を抱え込んだ人間が、自らのトラウマと対

決すべく問題の生じた子供時代へと ― その時から今日までの個人史を

擲却して ― 一足飛びに回帰するのです。いくつもの条件がかみ合った

ときしか起こらない精神現象だと言われています。孵化した場の水の匂い

だけを頼りに、広大な海を捨て、河川の潮流に逆らい、死の危険を賭して

しゃにむに原点へと突き進む小さな鮎のように、彼は三十年の時間を遡っ

て過去のある時期に戻ろうとしているのです。わたしには不明な、彼の実

存の根底に宿る願いを果たすために。

彼はまずわたしが、というよりはわたしが代理している父親が実在してい

ることを確かめようとしたようです。わたしの膝にもたれかかり、両手を

伸ばしてわたしの髪、目、鼻、口もとを触ります。髭をあまりにも強く引

っ張るので、危うく悲鳴を上げるところでした。ついでわたしの両手を取

って、部屋の中を歩かせようとします。ガラスの破片が飛び散った場所に

踏み込まないよう、わたしは導かれるふりをしながら逆の方向に彼を誘導

しました。いずれにせよ、こうしてわたしが生身の人間で、ただの幻では

ないことを確かめると、大伴くんは無上の喜びを顔に漲らせて、わたしの

膝に繰り返し頬を擦りつけて、「パパ」に再会した歓びを表現するのでし

た。

 

それから彼は、二歳前後の幼児の言語能力の限りを尽くして語りだしまし

た。わたしたちの言語意識の土台には、言語化される前段階の思考や情念

の断片が綿のように積み重なっており、わたしたちはそこから前言語の塊

をつかみだし、語彙と文法則に頼りながら自らの語りを編みあげていきま

す。知的障害者も幼児も自己表現の欲求は持つものの、語彙と文法秩序の

不備が災いして、発話はコミュニケーションの体を成しません。ところが

「子供返り」をした大伴くんは、その当時大人の言語活動に触れながら、

すでに文法則とそれなりの語彙を習得していたようです。むろん彼の言語

操作は恣意性や偏りを免れず、なにか酔漢がくだを巻いているかのような

聞きづらさはあるものの、正しい語彙もそれなりに備えているため発話の

脈絡を辿ることはできました。

 

最初の発話には、いない、どこか、急に、ちっとも、そばに、といった第

三人称の不在に関わる語が、また、待つ、会う、探すなどの彼自身を主語

として能動的な操作を表示する単語が聞き取れました。父親があるとき突

然姿を消し、待とうと探そうといっかな戻ってこない、その喪失感が彼の

幼時の原体験を構成していることが察知されました。少し間を置いてから

始まった次の発話には、痛い、赤い、怖い、死ぬという起爆力の高い表現

が並びました。これらの語を彼は、辛そうに表情を歪めながら吐き出しま

す。考えたくもないことですが、ひょっとして父親は心理的・精神的なも

のも含め、彼に激しい暴力を加えたのかもしれません。そしてもう一度、

今度は長めの中断を挟んでから発せられた最後の発話は、感動的でした。

彼は命令形を多用しました。いて、見て、帰らないで、消えないで、と父

親に哀願するのです。無垢な童顔が涙を流して訴えます。わたしは嗚咽を

漏らすこともなく、ただ涙だけをぽろぽろ流す「子供」を初めて見ました。

あまりのいじらしさに、わたしは両手を差しのべふっくらした彼の頬を包

み、頬を伝い落ちる熱い涙を唇で吸い取りました。実の父親に慰撫されて

いると思ったのでしょうか、彼は恍惚とした笑みを浮かべながらまたして

も眠りに落ちていくのでした」。



                                                  続 く 









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