田んぼの玄さん


                                         抱念 さん 


(1)


玄さんは農機メーカーの名前が入った白いツナギと麦藁帽子という、いつ

もの出で立ちで、その朝も田んぼの畦にいた。

 

田中玄一、七十二歳。子ども時分の手伝いから数えたら、百姓はもう還暦

を超えた。一重まぶたが涼しい、スラリと痩せ形の爺さんだ。

玄さんが中学校へ上がった時に、その締め方を父親から教わった六尺褌が、

洗い晒したツナギの尻っぺたにゴツゴツ透けて見える。

 

玄さんは毎朝飯を食うと散歩がてら田んぼへ行くのが日課だった。今朝も

またおてんと様がジリジリ背中を照りつける中を田んぼまでやって来た。

田んぼの様子を見て回ると、稲は若緑の穂が出始めて、堰の水が滔々と流

れている。玄さんはそこで立ち止まった。

田んぼを跨いだ向こうの栗の木の下でこちらを見ている男に気がついたの

だ。

 

隣りの義孝だった。

玄さんは手を上げてあいさつを送った。

 

「オハヨォー‥」

 

高田義孝は玄さんの家(うち)の隣りの住人だ。この十件足らずの集落はポ

ツリポツリ、どの家もたいがい歩いて五分や十分は離れている。そんな中

で義孝の家と玄さんの家は千住畑を挟んだ植え込みが境だった。

 

義孝は一人っ子、四十になったが未だ嫁には恵まれない。

母親は義孝が中学生の時に流行病で死んでしまった。父親の義正もまた、

息子が三十を過ぎたころ、亡くなった。

玄さんは隣り同士の誼と云うだけでなく、義正との約束もあって、義孝を

呼んで一緒に晩飯を食べたり、時には玄さんが出向いて一杯をやることも

あった。

 

玄さんと義正は若い時分に固く結ばれていた。そして義正は亡くなる前に

玄さんに頼んだ、息子の親父代わりになってくれと。

 

玄さんには子どもがなかった。嫁さんは身体が弱くて、初めてのお産の時、

子どもをみちづれに死んでしまった。そしてそれから嫁を娶ることはもう

しなかった。

それでも年々年を取ってゆく両親の面倒はちゃんとみてやった。そして六

十を過ぎて母親を看取ったあとは、誰に気兼ねすることもなく、気ままに

ひとり暮らしている。

 

 

父親から受け継いだ田んぼを、玄さんは一人で守って来た。

決して裕福では無いけれど、米と野菜には困らない。里山の豊かな四季に

彩られた自然に囲まれて、それらとともに生きていることが、充分にしあ

わせだと知っている。

 

 

あぜ道を義孝のところへ歩いて行くと、噎せるような栗の花の匂いが頭の

上からかぶさってきた。その濃厚な白い匂いを嗅ぐと玄さんは義正とのこ

とを思い出す。

 

義正の堅いちんぼをねじ込まれ、唇も舌もしびれるほど尺八させられた挙

げ句に、白い飛礫
(つぶて)を玄さんの喉奥に飛ばす。ビシャッ‥外に聞こ

えるような音を立てて、義正の思いの丈がぶち当たった。

鼻の奥にこみ上げて、口いっぱいに広がる義正の濃密な匂い‥何度それを

味あわされたことだろう。

 

においかおりがひとをあのころそのときへつれていってくれる。

 

花の匂いに包まれて、玄さんは義孝を義正だと思っているようだった。

 

「今日はえれぇ早えぇな、どうした‥」

 

「俺に褌の締め方教(おせ)えとくれや‥」

唐突だった。しかし義孝は目を逸らすことなく、玄さんを見ている。

 

「なんでまた‥」

 

「むかしは親父が褌ひとつで田んぼや畑にいるの見ると‥人が見てるにみ

っともねえ、恥ずかしいって思ってたけど‥、‥玄さんも締めてるし‥俺

も締めてえって思っただよ‥」

少しうつむき加減だが、はっきり応えた。

 

義孝を家へ呼んだ時、暑がって褌一丁になることはしょっちゅうだ。だか

らその所為かと思った玄さんは、まんざらではなかった。

 

 

親父の義正と褌は切っても切れなかった。

玄さんが褌のゴツゴツを浮き上がらせているのを見た義正が、今日の息子

のように、六尺褌の締め方を教えてくれと玄さんにせっついた。

それがどんぴしゃ嵌まったのだ。

それからの義正は陽気が好いと、田んぼでも畑でも、褌に地下足袋、そし

てねじりのはちまき。それで田植えや草取り、肥料を撒いたり、百姓仕事

はそれでした。

                

その格好を見て陰で眉を顰める女は確かにいた。しかし、それこそ義正が

義正である証しだった。

そんな義正だったが、七年前に心筋梗塞で逝ってしまった。その日も褌ひ

とつで田んぼにいたが、帰ってきてひとっ風呂浴びているうちにいけなく

なってしまった。呆気ないものだ。

玄さんよりひと回りも下だったのに、そのあまりにも早すぎる死に、玄さ

んはいっとき呆けたようになってしまった。

そして何年経っても、義正のことが玄さんの心から離れることはなかった。



                                                続 く 







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